われ怒りて視る、何の惨虐ぞ

朝鮮人あまた殺されたり

その血百里の間に連らなれり

われ怒りて視る、何の惨虐ぞ

 

萩原朔太郎

 

 私はテレビのニュースを観ていない。

別に、テレビが「真実」を伝えていないからじゃない。

単純に胸糞が悪くなってくるからだ。

 神奈川県で、ある男のアパートから9人の遺体が見つかった。

8月から9人もの人間を殺害し、部屋には首が保管されていたという。

食事の時にテレビを観る習慣のある私はこんな猟奇的な事件がセンセーショナルに報じられると、テレビを消して、YouTubeを観る。

こういう時はYouTubeの違法アップロードのテレビ番組がとても有難く感じる。

 報道する自由があるとは言え、一視聴者としてはそんな方法で心の安定を保っている。

だけれども、逃げ込んだ先のネット空間にも安らぎは無かった。

 Twitterを観ていたら、この事件の犯人が在日だというツイートに出くわした。

どうやら犯人の名字である「白石」という名字が朝鮮系の名字として認知されているらしい。

歴史好きな私にとって、「白石」という名字が極めて「日本的」であることはすぐに分かる。

伊達政宗の家臣だった人の中に「白石」という名字の武士が居たし、昔、流行した『生協の白石さん』という本を思い出しても、「白石」という名字がごく一般にありふれた苗字であることは簡単に分かる。

 こんなツイートを観ていて、私は思わず萩原朔太郎関東大震災後の朝鮮人虐殺が起きた後に詠んだ詩を思い出しざるを得なかった。

 ネット上には平気で、凶悪犯罪は在日のせいだとされている。

どういう根拠があるのか私には全く理解ができない。

在日コリアンが何かの事件で捕まれば、すぐに「あの朝鮮人たちは凶悪犯罪しか犯さない。」という言葉が出てくる。

 私は全員の在日コリアンが良い人とは思わない。

中には悪人だって居るし、逆に善人だって居るだろう。

私が観てきた在日コリアンは決して、1つの色だけではなかった。

底意地の悪い人。

神様のように性格が良い人。

苦労した顔をしながら、あらゆる言葉を飲み込んで、文字通り「在日」として生きている人。

日本人になって、「在日」として生きている人たちをどこか下に観ながら、自分の「過去」をバラされたくないと思って、ビクビクして生活している人。

悪事に手を染める人。

悪事に手を染める「同胞」を軽蔑しながら、善良に「強く」生きている人。

私はそんな人たちと生活してきた。

 もちろん、私は在日コリアン全員を観てきたわけではない。

だけれども、在日コリアンと言っても、あらゆる人たちがひしめき合って暮らしていることは間違いないことだ。

 それは日本人だってそうじゃないだろうか。

色々な日本人と会ってきたけれども、色々な人たちが居た。

もし、日本国内で在日ではない日本人による犯罪が起きた時に「日本人の犯罪」という言い方を私はしない。

何故ならば、犯罪を犯したのはその人であって、別に「日本人」という近代が作り上げた民族が犯罪を犯したわけではないからだ。

 言葉の海の中に放り込まれた無責任な言葉の先にあったものとは一体、何だろう。

私はブログで何度も書いている関東大震災後の朝鮮人虐殺を思い出す。

あのジェノサイドは得体の知れない「朝鮮人像」が独り歩きした結果、死ななくて良い生命が死んだ。

 もしかしたらもう、得体の知れない「朝鮮人」は言葉の海の中で作られているのかもしれない。

私はそんな言葉の海の中で無責任に作られた「朝鮮人」に追われている。

そして、あの時を思い出し、「覚悟」している。

 あのことを繰り返したくないからこそ、私はあの事件の犯人を在日だと言うツイートを観て、画面に向かって思わず叫ぶ。

「われ怒りて視る、何の惨虐ぞ」と。

 こんな時に私は考えることがある。

それは萩原朔太郎はどんな気持ちで書いていたのかだ。

もちろん、萩原自身に聴かなければ分からないことだろう。

 だが、不思議なことに私は萩原の気持ちが少しだけ分かるような気がする。

それは書くことは未来を信じることであり、目の前にある惨状を語り伝えることが出来るということだ。

 私はネットの「遊び」に怒りを表明するとともに、こんなバカげたことが行われていたことを語っていきたい。

 未来の人たちへ

こんなことがあったんですよ。