私の大好きな舞台がある。
それは『在日バイタルチェック』という舞台だ。
在日コリアンの歴史や日常を余すところなく伝えているこの舞台には笑いもあるし、泣けるところもある。
一度、観ておいて損がないものだと私は思っている。
この舞台の主人公は済州島から渡ってきたおばあさんだ。
このおばあさんが私の父方の祖母にそっくりなのだ。
「そうそう!こんな感じ!懐かしいなぁ!久しぶりだなぁ!」
と思いながら、私の父方の祖母に会った気分になり、少し涙ぐむ。
在日1世の人たちには独特の訛りがあることは色々な舞台でやっているが、きむ・きがんさんの演じる在日1世の人の訛りは多分、本物に近い。
だけれども、同時にそんな「訛り」にとても違和感を感じる私も居る。
というのは、母方の祖母には「訛り」が一切無かったからだ。
母方の祖母は私の記憶の中で、日本語と韓国語の両方がとても流暢な人だった。
韓国語に関しては通訳をやっていたくらい上手で、日本語に関しては「この人は韓国人です。」と言わなければ、祖母が韓国人であることは誰も分からないくらいに、日本語が上手だった。
これには理由がある。
祖母が青春を過ごしていた植民地統治時代には、韓国語を使ってはいけないという決まりがあったそうだ。
これは祖母から聴いた話だけれども、昼間は日本語で話し、夜中は韓国語でひっそりと誰にも気づかれないように家族で喋ることが当たり前だったらしい。
当然、学校に通えば、日本語を教えられる。
そのせいで、祖母は日本語がとても上手だった。
祖母には弟が居るが、祖母の弟は日本語が喋れない。
年が離れていることもあるし、植民地統治時代の記憶はごくわずかな為、日本語を喋ることができないそうだ。
姉弟という関係なのに、生まれるのが早いか、遅いかで、その人の喋る言葉が決まってしまうのは面白い。
祖母はあの時代にしては珍しく、大学を出て、国語の先生として小学校で働いていた。
その後、母を育てるために日本にやって来たのだが、年に何回か、母と一緒に韓国の実家に帰省していたそうだ。
その時に困ったことが起きた。
祖母が市場で買い物をしようとすると、祖母の韓国語を聴いて、ぼったくろうとする輩が多かったそうだ。
この当時、韓国は非常に貧しい国で日本から来たお客さんは全て金持ちと考えられていた時代だ。
どうやら祖母は日本人と間違われていたようだ。
それを観た祖母の弟は「姉さん、市場で買い物をする時は、俺が行くから黙っていてよ。」と言って、市場に行く時は必ず、弟同伴になったそうだ。
韓国で国語の先生をやっていた祖母はどんな気持ちだったのだろう。
私はこの話を最初に聴いた時、「海外で長く生活していて、言葉を忘れただけでしょ。」と思い込んでいた。
だが、どうやらそれは違ったようだ。
とある大学の先生が、ツイートしていたことだけれども、植民地統治時代に教育を受けた韓国人たちの韓国語を読んでみると、とても「日本語」的な表現が多いらしい。
あの時、祖母が市場でぼったくられた理由はこういうことがあったからかもしれないと思うと、植民地時代の複雑さを感じた。
よく日本で言われるのは「韓国語と日本語は文法が良く似ている。」ということだが、実際は韓国語と日本語には表現の差があるので、全く同じ言語とは言えない。
だけれども、日本による植民地支配によって、日本語教育が一般化していくと、韓国語の中に日本語の表現が入り込んでしまったことがかなりある。
それを私たちは「韓国語」として使っている。
なんだか不思議な話だ。
だけれども、これだけ言えるのは、植民地支配によって、言葉を奪われた人たちは確実に居て、そういう人たちが日常の中で、植民地支配を感じる生活をしていたことは間違いない。
こんな「言葉を奪われた人たち」を観てきた、私は日本語しか使えない。
そして、「日本語」を使っている立場だからこそ、こんな出来事を書いている。
私が日本語に拘ってきたのはそんな理由なのかもしれない。