柳に今を尋ねる

   私は映画『阿賀に生きる』をきっかけにして出会った方のお誘いで新潟に行くことになった。新潟とは縁遠く、余りイメージするものもない。だけれども、ふと、大学の授業の記憶を思い出した。それは北朝鮮への帰還事業は新潟港で行われたことだった。

   私は新潟に向かう前に帰還事業に所縁のある場所を探し出し、自分の脚で向かうことにした。

   池袋から深夜バスで4時間半近くかけ、新潟に着いた時、朝焼けが麗しい頃だった。

私がネットで見つけ出したのは「祖国往来記念館」という建物と「ボトナム通り」という通りとその由来を知らせる看板と帰還事業の記念碑だった。

   私はバスから出て、その建物と看板と記念碑に向かって、歩き出した。

   歩いていると新潟市の歴史を伝える看板や記念碑が数多くあることに気付く。歴史が好きな私は看板や記念碑をスマートフォンのカメラで撮影しながら、歩いて行く。

   「ボトナム通り」に着いた。街路樹として柳の木が植えてある。私が目的としている建物と看板と記念碑はまだ歩かなければいけないらしいので、そちらに向かって歩き続ける。

   「ボトナム通り」の「ボトナム」とは韓国語(「朝鮮語」と言わないのは多分、教育なのかもしれない)で「柳」を意味する。日朝親善事業の一環でどうやら柳の木が北朝鮮から贈られたらしい。それに感激した当時の新潟県知事が港に至る通りに街路樹として植え、その通りを「ボトナム通り」と名付けたようだ。

   しばらく歩いていると「祖国往来記念館」とハングルで書かれたと建物に着いた。朝早くだったということもあるのだろうか、シャッターが閉まっていた。その隣にある総連のものと思しき建物はガランとしていて何もない。

   シャッターが閉まっていたのはもしかしたら、朝早かったのではなくて、そこに何故、総連の建物があるか黙して語らないようにしているだけかもしれない。

   そこからまた少し歩く。そうすると「ボトナム通り」の由来を知らせる看板と帰還事業の記念碑がポツンと立っていた。2000年に作られた看板の文字は掠れてしまって、読むことはもう難しい。港町特有の潮風のせいだろうか?

   この看板と出会った時、かつて、この街で起きた一大事業と現在が出会ったように思った。

   私の父方の祖父と祖父の一家北朝鮮への帰還を考えていた。祖父とその一家は当時、困窮しており、北朝鮮が地上の楽園であるという流行の言説を信じていた。

  実は父方の祖父以外に、北朝鮮への帰還を考えていた人間が他にも居た。それは祖父の弟とその一家だった。

   父方の祖父は3人兄弟で、その真ん中。兄と弟が居て、兄弟たちと済州島から日本にやって来た。

   この3人兄弟の中で日本で比較的成功したのは一番上の祖父の兄だったらしい。勢いのある性格と豪胆さで商売に成功したが、祖父は勢いはあったものの、様々な問題から生活に困窮した。

   この2人と祖父の弟は全く性格が違ったようだ。

温和で、堅実で、真面目。

   3人の兄弟の中で、一番、真人間だと周りに言われたらしい。

   祖父の弟が北朝鮮に行きたいと思ったのは北朝鮮が発展しているということではなく、差別の多い日本よりも温和な生活ができると言われていたからだった。それだけに憧れも強く、先に祖父の弟とその一家北朝鮮へ帰還した。その次に祖父とその一家が帰還する予定だったが、当時、北送反対を主張していた民団の説得によって、結局、日本に残ることになった。

   北朝鮮に帰還した祖父の弟とその一家がどうなったのかは分からない。ただ、私が知っているのは族譜にある祖父の弟とその一家の名前と生年月日、そして、元山に住んでいるという記述だけだ。

   祖父の弟が願った温和な生活は、ニュースを見ている限り、出来たとは思えない。

    帰還事業は自らの意思で行なったとされている。確かにそれは事実かもしれない。だけれども、帰還事業の風を作った人たちにどんな意図があったことは語られない。

   昔、『キューポラのある街』という「名作」映画を観たことがある。北朝鮮への帰還事業をテーマにしているので、今では放送されることすらないらしい。私にとっては背筋が凍る作品だ。「善意」という名の下に、時代の流れを作り、結果は悲惨なものになった。あの作品を放送しないこともまたその怖さに拍車を掛けている。まるで、あの時代の出来事に蓋をしてしまったかのようだ。

   帰還事業について、日本政府や北朝鮮政府、あの時代、帰還事業を熱心に進めた人たちから何かを語った話を聴いたことがない。多分、これからも何かを語ることもないだろう。

「自由意志」という名で帰還させたのだから。

    2003年の日朝首脳会談で同じく新潟県を舞台とした北朝鮮による日本人の拉致問題が発覚してから帰還事業は薄いものに変化してしまった。そして、2010年代になってから、ヘイトスピーチの問題が顕在化して、より帰還事業の歴史は彼方へと行ってしまった。

   もしかしたら、あの看板の掠れた文字は潮風によって掠れたのではなくて、時代の風によって掠れたのかもしれない。

  私たちは常に柳のように枝葉を風に委ねたり、暴風の吹く中で風に逆らったりして、生きている。きっとあの時代、北朝鮮への帰還を考えた祖父や祖父の弟は柳のように生きていたのだろう。私もまたヘイトスピーチの問題が取り沙汰される中で、私の枝葉を風に委ねたり、風に逆らったりして生きている。風は誰によって作られたのかを考えながら。

   私は柳の木に聴いてみた。

ヘイトスピーチにまみれたこの国で、死の恐怖に脅かされながら生きている方が正解だったのか。

偽物の歴史で独裁体制を築いている国で、権力と死の恐怖に苛まれながら生きている方が正解だったのか。

私の問いに柳の木は答えず、ただ黙って、風を枝葉に委ねていた。きっと枝葉を揺らしていた風を見ろと柳は言っていたのだと思う。