「文化」が作られる場所

 先日、とある新聞記事を読んだ。どういう新聞記事だったか、詳しくここで書くことはしないが、とあるマイノリティーの当事者が「文化はマーケットによって生まれる」という発言をした新聞記事だった。マーケットということは資本主義の理論の中で文化が生まれたということか。確かにマーケットの中で文化は支えられていることは間違いない。しかし、そんなことは本当なのか?

  私は『カミングアウト・レターズ』という本が好きだ。LGBTの当事者たちが親や教師に自分の性的指向をカミングアウトした往復書簡を集めた本なのだが、この本にはとても不思議な熱がある。

 この本の魅力を挙げるとするととてつもなくたどたどしく、そして、各個人が文章を書きながら様々な気持ちの中で揺れているということだ。自分の性的指向を親に言うというのはとても難しいことだと思う。私のようなエスニック・マイノリティーは家族という血の繋がった共同体に依存しがちだが、セクシャル・マイノリティーはまず第一歩として「親」に何かを話すということから始まる。言わば、独りの状況から言葉を吐き出すことを始めるのだ。そんな状況から言葉を作り出すのはなかなか難しい。

 私はそんな「たどたどしさ」や「揺れている」文章を読みながら、不思議なことに勇気を貰う。全く違うマイノリティーという立場だけれども、そんな違うマイノリティーだからこそ、この本の中にある熱の言葉に救われる。

 私と同じくこうして言葉を紡いで必死で生きている人たちが居たんだと。

 ブログという趣味の環境の中ででもこうやって文章を書いていると他の人の熱のある言葉は励みになっていくし、ひとりではないと感じることがある。そんな本に出会えたのはとても幸せなことかもしれない。

 学生時代、私は政治学と共に文化人類学を学んできた。文化人類学の恩師がずっと私に言い続けていたことがある。それは「文化とは切実なものを持っている人が作り出すもの」という言葉だった。思えば、確かにその通りだ。私が勇気を貰う言葉を吐き出す人たちは何か切実さを持っている。ゾラ・ニール=ハーストンやアリス・ウォーカーやトニ・モリスンはアメリカの厳しい二重の差別の中で生きてきたからこそ、そんな人たちの言葉が私を奮い立たせてくれている。きっと彼女たちは自分たちの切実な問題をどうしても外に出していきたいということで書き続けたのかもしれない。そして、そんな姿が格好良く見えてくる。何かを表現しようとしているとどうしても賛成の言葉ばかりじゃなくて、反対の言葉だってある。そんな中でも凛と生きている姿がまた良い。そんな姿に私も勇気づけられる。

 そんな凛と生きている姿は当然、『カミングアウト・レターズ』の中に収録されている親や教師に対して一生懸命、自分の言葉で書き続けた当事者たちの姿でもある。自分の切実な問題を一番理解してくれて、理解してくれない相手に言う姿は何よりも格好良い。そして、そんな人たちから出て来る言葉は私だけではなくて、他の人たちも勇気づけたと思っている。

 もしかしたら、文化というのは社会から言葉を奪われた人たちが社会と繋がりたいと願いながら、切実な問題をたどたどしくも、必死に外に叫びたいという気持ちで作っていったのではないか。文化とは熱のある言葉のことなのだ。その熱のある言葉は決して、マーケットの理論の中では作ることはできない、当事者たちの切実な言葉にならない感情の中で作り出されるものなのだと思う。