歴史が色を持つ時

  アエラの記者さんのTwitterが炎上していた。最近、零戦が東京上空を飛んだというニュースに対して、零戦の「美しさ」や「雄姿」を称賛するのではなくて、零戦に平和を奪われた人たちについて知ることが重要であるというコメントが反発を呼んだらしい。

 このコメントに対して、朝日新聞がどうだとか、熊本城がどうだとか本線からずれた話ばっかりで反論になっているようでなっていない反論が多いと思ったのが私の実感だった。しかし、それでもこういう反応が多いのは、歴史の楽しみ方を誰かに言われたくないということからなのだろうか。

 私は歴史が好きだ。小さい頃は日本の中世史が好きで、成長するにつれて、世界史やアジアの歴史まで好きになっていた。そんな私が歴史の本を読んでいるとあることに気づく。とんでもない死者が出た戦争など、とんでもない犠牲者の数字が書かれてあるのだけれども、しれっと、ごく自然に書いてある。普通の歴史の本というのは政治の出来事を中心とした大きな視点で書かれることが多い。そんな視点で書いてあると大きな戦争でもしれっと犠牲者の数を書いてしまうのだ。そして、そんな数字を「凄いですよね!」と若干興奮気味に仲間へ言う私も居た。

 そんな「歴史好き」だった私にある日、歴史に直面する出来事が起きた。

 私は韓国留学中に父方の祖父母の出身地である済州島に行った。それは父も会ったことがないという祖母が違う済州島の伯父に会うためだった。私が持っていた資料は何十年も前に書かれた親族関係の住所録のみ。本当に済州島の伯父に会えるか心配になったが、なんとか伯父の住んでいる場所にまでたどり着き、済州島の伯父に出会うことが出来た。韓国語も片言で、突然やってきた見たこともない甥っ子である私を彼は温かく迎えてくれた。

 日本に帰ってきてから別の伯父に済州島に行ったことを報告し、済州島に住む伯父が元気だということを話した。そうすると伯父は済州島の伯父がベトナム戦争に従軍して、精神を病んで済州島に帰ってきたことを私に話してくれた。色々な話を親族から聴かされて育ったが、私にとっては初めて知る事実だった。

 今までベトナム戦争というのはどこか他人事の出来事だった。大学の授業やドキュメンタリー映画、本などでベトナム戦争のことは知る程度でその時の感想は、「なんで、アメリカはこんな負ける戦争をしたのだろう?」とか「ベトナムはやっぱり凄い」ぐらいの感想にしか過ぎなかったが、伯父がベトナム戦争に従軍していたことを知ると一変して、他人事だった歴史がまた別の角度から考えるようになった。

 もしかしたら、私が知っていたのはあくまでも文字や数字だけの大きな視点での歴史であって、実はその文字や数字に込められている命にまつわる小さな視点の歴史としては一切考えてなかったのではないかと。

 人によって起こされた出来事を対岸の火事として観てしまう癖がある。分かりやすく言うとテレビニュースが良いかもしれない。ニュースキャスターは「痛ましい事件ですね。」ということを言いながら次のニュースを報じてしまうし、観ている側もそうすることをどこかで望んでいる。疲れて帰ってきて、痛ましい事件を常に見たいわけではないからだ。だが、その反面、人によって起こされた悲劇を対岸の火事としてしか理解できなくなってしまう面もある。本来は私たち自身の問題として考えなければいけない問題がいつの間にやら、私とは切り離して語られる。

 思い起こせば小学校から高校までの歴史の授業を思い浮かべてみると近現代史の授業が少ないということもあるが、歴史を対岸の火事として捉えることが多かったと思う。そうでもしなければ、受験に間に合わないという事情もあるだろうが、やってきたことと言えば、年号の暗記や出来事の暗記といったことだ。当然、これからが不必要であるとは言わない。むしろ、そういうことはとても必要なことだ。

 だが、どうしても文字ばかり、もしくは数字ばかりを観てしまうと、そこで死んでしまった人たちやそこに生活していた人たちのことがどこか他人事になってしまう。当然、私の言っていることは史資料を軽んじるなということでは無くて、史資料や数字にしれっと書いてある個人の歴史に思いをはせてみたり、個人の生活や日常に思いをはせてみたりしても良いんじゃないかと思う。そんな生活や日常に思いをはせた瞬間に不思議とまた別の視点が生まれてくる。

 そんな歴史への見方が実は新しい何かを作ってくれるのかもしれない。過去を振り返るということを私たちはただしているだけではなくて、今、私たちに何が必要なのかを教えてくれたりもするのだ。

 歴史の楽しみ方は人それぞれあるし、愛着があればあるほど、そんな楽しみ方を誰かに言われることは嫌なのかもしれない。ある意味では大きな視点の歴史として楽しむのも面白いのかもしれないが、白黒な大きな視点から、大きな出来事の幕間にあった小さいがカラフルな個人の物語に目を移してみるとまた違った色が出てくるのではないか。そんな歴史が色を持った瞬間に初めて、歴史と出会ったと言えるのではないのかと思う。