声を押しつぶす人たち

 今、安倍晋三寄りのジャーナリストである山口敬之氏が女性に性的暴行をしたと問題になっている。被害を受けた女性は警察に被害を届けたものの、結果的に嫌疑不十分のため、書類送検になった。

 被害を受けた女性は一部ではあるものの実名を公表し、顔を出して会見に臨んだ。こういった性的暴行の事例では被害者が表に出て何かを話すということはとても少ないが、今回は彼女の希望によって、会見が行われることになった。

 しかし、そんな被害を受けた女性に対して、この女性に「隙」があったのではないか?という声がある。男女2人でお酒を飲みに行くのに油断をしてはいけないということが言いたいのだろうか?こんな意見を観ていて、何だか呆れかえってしまった。

 被害者であるにも関わらず、何故、ここまで非難の声が上がるのだろうか?

 学校でいじめ自殺があったという話や企業の中で何らかの問題があったという話の中で必ず言われる文句がある。それは「この問題については全く関知していませんでした。」という言葉だ。問題が起きた学校や企業のお偉いさんに何かマニュアルでもあるんじゃないか?と思ってしまうくらいに共通している。長い間、こういった現象が起きてしまうことが不思議でしょうがなかったが、あることをきっかけにこういうことが原因なのではないか?と思い始めた。

 私はBuzzfeedヘイトスピーチに関しての記事が取り上げられて以来、小さな空間やインターネットの空間で「当事者」として差別の話を話す機会が多くなった。私の話に対して様々な応答がやって来るのだが、その中でびっくりしてしまう応答があった。それは「貴方の受けている差別なんて気のせいじゃない?」という言葉だ。この言葉はとても怖い。私が話したことは無かった問題と断定してしまうからだ。

 差別の問題のみならず、こういった「語りにくい被害」は当事者が様々な社会的制約から語らないということが多いけれども、私は「語ってもしょうがない」という心理がどこかで働くのではないかと思う。声を出してもそれを差別として認知しようとせず、差別されている当人のせいにしてしまうのだから、声を出しても何も変わらないということに気づいてしまう。そして、怖いのは「気のせいじゃない?」と言っている人たちが、無かったことにしようとしている感覚すらないということだ。

 この被害女性への非難とは一体何だろうと考えてみると同じ怖さを感じる。

 彼女を非難している人たちはたくさん居るが、そのどれもが彼女の「失点」としてこの問題を語ろうとしている。だけれども、それは被害を受けた彼女の失点にすることによって、無かったことにしたいという欲望の表れであるのだ。

 そして、この問題の深刻な点は「語ってもしょうがない」という空気を作ってしまうことだ。日本国内では性犯罪が起き続けている。そのような中で、彼女の勇気のある「告発」は非常に意味をなすものになる。でも、もし、この「語ってもしょうがない」という空気を作り出してしまったらどうなるのだろう。同じような犯罪が起きたとしても見逃され続けてしまうだけだ。

 無かったことにしたい人たちはそこまで考えているのだろうか。

 そんな無かった人たちに対抗するためにしていることは何だろう。

 それは声を出すことだ。ネットでも、自分たちの周りの人たちにも少しだけ話をしてみるのも良いのかもしれない。まずは無かったことにしないこと。そして、勇気のある告発をした彼女に寄り添うこと。これが一番大事なことだと私は思う。

 とても単純なことだし、もしかしたら、どこででも言われていることかもしれないけれども、敢えてここで書いたのは、ただでさえ、これから誰かが集まって物を自由に言えなくなる時代が来るかもしれないからだ。

 そんな時代にしようとしている偉い人とその取り巻きの人たちにとって一体何が怖いのかと言えば、そんな小さな繋がりとちょっとした言葉の力だ。犯罪をもみ消せるよな大きな力を持っている人たちだからこそ、とっても怖い力を私たちは持っている。