死者を生かす言葉

 3月1日。この日は1919年3月1日に発生した3・1独立運動を記念して、韓国では様々な行事が行われ、98年前にどのようなことがあったのかをじっくりと向き合う日となっている。

 そして、3月1日は私の母方の祖母が亡くなった日でもある。祖母は1960年代に日本に来るまで、日本の植民地支配、朝鮮戦争、李承晩政権による独裁、4・19学生革命、5・18軍事クーデターまで韓国の歴史をずっと体験してきた人だった。

 祖母がまだ生きていた頃、私は祖母から様々な昔話を聴いて育った。どの話も普通の韓国史の本にはない血が通った昔話で、私が韓国史の話をする際には、祖母から伝え聴いた話をする場合が多い。韓国史の概要を知りたいのであれば韓国史の本を読めば良いが、そんな本にすら載っていない話をすることによって、歴史が持っていた熱風を感じて欲しいからだ。

 韓国が植民地だった頃を体験している人は確実に少なくなっている。植民地だった頃を体験していて、日本語も上手だった世代はもう90代になるだろうか?

 かつて、日本では、韓国へ行っても日本語でコミュニケーションが取れてしまうと言われていたが、そのような時代はとっくに過ぎ去ってしまい、今の韓国の人々はほとんどが、大韓民国建国以降の生まれになっている。それは日本語が通じる世代が居なくなったのと同時に、私たちが歴史として学んだ出来事を血の通った出来事として知っている人たちが徐々に居なくなりつつあるということでもある。

  当事者ではない私たちは、当事者たちにとって血の通った出来事をどこかで学んだ大きな物語の「歴史」として学ぶ機会が多くなってしまい、私たちが学んだ「歴史」という大きな物語の中で、何人もの小さな尊い物語があったことを忘れがちになる。

 私は「死」という概念に2つの段階が存在すると思っている。

1つ目の段階は肉体としての死、2つ目の段階は人々の記憶から忘却されてしまうことだ。

肉体としての死を迎えてしまうのは人間が生き物である限り、しょうがないことだと思っている。

だが、忘却という死には何とかして抗っていきたい。

   私たちの世界には言葉があって、その言葉を通して、どういった人生があったのか?といったことを未来に語り継ぐことを私は知っているからだ。

 私が家族の話をすると、アイデンティティーで悩んでいるのではないかと思われることがある。だが、私がしたいことは、そんな歴史の狭間で命を落とした人々の記憶を伝えていきたいということだけだ。

   私の祖母は日本の植民地時代に亡くなった人や朝鮮戦争で亡くなった人々など様々な人々の顔を思い浮かべながら、小さかった私に昔話をしていたと思う。

   そして、今。私はあの時、昔話をしていた祖母の顔を思い浮かべながら祖母から伝え聴いた話をしている。

 こうやって、私がこのブログで書くことも、私にとって、とても大事な語り継ぎだ。私は歴史の狭間で消えていった人々や亡くなった祖母をネットの世界で伝えることによって、会ったことのない人の中にも彼・彼女たちを生かしたいと思いながら、キーボードを打っている。

 それこそが言葉の可能性だと私は信じている。