「本場」を超えて

 まずは私の文章を読む前にこの記事を読んで欲しい。

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  蕎麦屋でカレーを頼むと異端児のように見られてしまうのだがそんなことはない。蕎麦屋のカレーの素晴らしいことよ。スパイシーなインドカレーやちょっと上品な欧風カレーとは違って、とても馴染みがあり、私の舌を安心させてくれる。私はどうやら美食家ではないようだ。どちらかと言えば、高級食材をふんだんに使った料理よりも私の舌が安心する料理の方が好きだ。例えば、駅のホームにある立ち食い蕎麦屋のから揚げ蕎麦。何の変哲もない味だし、一見どこででも食べられるかもしれないが、私はこれが大好きだ。あの濃いそばつゆに少しだけ脂っこいから揚げがあるのがたまらない。あんまり食べ過ぎると体重が大変なことになるので、どうしても食べたくなる時だけ食べるのだが、そんなから揚げ蕎麦を凌駕するぐらい私の舌を安心させる料理が我が家には存在する。

 私の父方の家は焼肉屋を経営していた。私が小学生の時まで祖母が店をやっていたことを憶えている。父の家に財産は無かったが、祖母から焼き肉のタレという財産だけは継承した。そのタレをさらに父と母は新しく改良し、我が家の焼き肉のタレが完成した。友人に何か持っていくときはこの焼き肉のタレをプレゼントしている。

 このタレは私が言うのも変な話だが非の打ち所がない。だが、たった1つだけ欠点が存在する。それはこのタレは高い肉だとその威力を発揮しない。少し安めの肉や今や高級肉になってしまったホルモンでなければあの美味しさは出てこないのだ。

 私は釜山に留学していたことがあり、釜山でこの味を求めていたがなかなか見つからない。いくら韓国料理でも、やはり在日の料理である「焼肉」と韓国の料理である「プルコギ」には大きな差があったことを実感した。その代わり、私の舌が安心する料理をいくつか見つけた。そのひとつが「チャンポン」だ。このチャンポンだがいわゆる長崎ちゃんぽんとは違う。辛い魚介だしのスープと手打ちの麺、そして、アサリや海老、野菜などの具がたくさん乗っている麺料理だ。長崎ちゃんぽんに慣れ親しんでいる人は最初、びっくりするかもしれないがとてもハマってしまう料理になるだろう。

 韓国には所謂、韓国式中華料理と呼ばれる韓国にしかない中華料理が存在する。「チャンポン」はその代表格の料理で、韓国名物である「配達」でよく食べられている。私も留学していた頃に、このチャンポンとチャーハン(韓国では「ポックンパブ」と呼ばれている)のセットをよく食べていた。韓国語も出来ない私にとってはそんな料理を食べて、韓国の土地を身体で感じることで精一杯だった。そんな味がとても懐かしく、今ではその味が故郷のように思える。

 菅野氏が書いた『おっさん画報 茅場町長寿庵カレー丼』の最後はこんな言葉で締めくくられていた。

「そこに人間の営みがある限り、そして人間の営みがその土地によって変わる限り、食べ物だってなんだって、その土地土地のすごい人たちによってすごい変貌をとげるのだ。日本すごいと偉そうがってる場合ではない。どんな人だってどんな文化だって、みんな、すごいんだよ。」

   よくある在日の悩みの中に「私は何人として生きていくか」という話がある。そんな話にハマって、アイデンティティー・クライシスに陥ってしまったり、自分を共同体に引き込ませることによって、自分自身を「純化」させたりしている。でも、そんな行為はカレー丼や焼き肉のタレ、チャンポンの前ではとても失礼になってしまうかもしれない。それぞれの料理は純化するのではなくて、それぞれの土地に良いものと結びつきながら、自ら味を作り上げている。

   私が尊敬してやまないエドワード・サイードはインタビューでこんなことを語っていた。

「民族共同体に帰属するという考え方をもてあそぶ時間は、私にはほとんどない。そんな考え方を抱くことが、さほど面白いこととも思えない。それに知的に高めてくれるわけでもないし。どうせがっかりするにきまている。むしろかなり不毛なことだ。いきおいフィリエーションよりもアフィリエーションの自発性のほうが、わたしは好きだな。友情関係、知的、精神的つながりをもつことのほうが、自分の特定のアイデンティティから派生してくるものよりも、わたしにとってはるかに貴重だよ。」

『サイード自身が語るサイード」より

 サイードのこの言葉はカレー丼や我が家の焼き肉のタレ、そして、チャンポンの味と同じぐらい私を安心させてくれる素晴らしい言葉だ。

 それぞれの食べ物の中には人の営みのダイナミズムと文化の美しさを感じることができる。それぞれの文化を超えて、安心するものを食べたいと願う人間の英知が隠されているからだ。そんなことを考えると「本場」ではなくて、食という美しい命の輝きだけが食べ物にはある。それは食だけではない。食を創り出した人間たちもそうだ。古来から、民族やそういったものを超えたアフィリエーションで人間は生きてきた。

そんなアフィリエーションにこそ、私は命の輝きを感じる。