デモの現場から教室を経由して祭祀(チェサ)の現場を観る

 朴槿恵大統領の弾劾騒動がとうとう山場を迎えている。野党が12月9日に弾劾決議案を国会で可決することを目指し、セヌリ党の非朴派は12月7日に朴槿恵大統領が辞任時期を示さなければ弾劾決議案に賛成するとのこと。とうとう朴槿恵大統領も追い込まれたという形だ。本来はこの憲法秩序回復の過程について色々と書いていかなければいけないのだろうが、今回はそんな話とは違って、韓国国内に根強く残っている問題の話をしようと思う。それは韓国における「女性」の話だ。

 2014年に私は釜山に留学していた。その時に、私は韓国政治を英語で学ぶクラスに入っていた。

 2014年というと韓国の経済状況が良くなかったことを覚えている。物価は上がっているのだが、賃金が上がらなかったことを愚痴る人が多かった。また、その年にはセウォル号の事件もあり、国内では朴槿恵が「何もしない大統領」として人々が様々な不満を漏らしている時期だった。

 私が居た韓国政治を英語で学ぶクラスにはベトナム人留学生がたくさん居て、彼らは特に女性が国家元首になったことが興味深かったそうで、クラスを受けもっていた教授に朴槿恵大統領に関しての質問を多く投げかけていた。具体的には「朴槿恵大統領が大統領になったことは韓国の女性の地位向上に繋がっているのか?」「韓国の女性の地位は上がっているのか?」といった質問だったと思う。

 それらの質問に対して、教授は朴槿恵大統領が父親である朴正煕大統領の長女であるということや父親の支持者や政治基盤を引き継いでいるということを話した後に、「朴槿恵大統領の韓国の女性の地位向上に繋がっていない。大統領は結婚しているわけでもないし、主婦の経験も無い。なので朴槿恵はWOMANではなくて、PERSONとしてしか見られていない。」と答えた。

この一言を聞いたときに、自分の中ではこんな言葉が出てきた。

「それでは一体、韓国における女性とはどんな人のことを言うのか?」

 我が家はクリスチャンだ。なので親戚が行っている祭祀(チェサ)に参加することはない。だが、お正月だけはチェサが終わった後に、正月の挨拶回りということで伯父の一家に会いに行く。

 韓国におけるチェサは本当に大変なのだ。誰が大変なのかと言えば、家に関わる女性が大変。とりあえず親戚中の女性が台所に立って、料理を作り、チェサの後片付けからなにやら全てをこなす。男は午前中にご先祖様へのお祈りをした後に、ただ飲んだくれているだけ(笑)そんな「韓国的」とされている空間の中には男性が行わなくてはいけないことと女性が行わなければいけないことというジェンダーの問題を垣間見ることができる。

 お正月、私が伯父の一家に挨拶回りをする時には必ず、伯父の妻である伯母が常に台所に立ち続けているし、私たちの世話まで焼いている。

母が「私やりましょうか?」と言っても「良いから、座ってて!」と言われ母が出る幕もない。伯母は済州島から伯父に嫁入りするために日本に来た。私のような在日とは違って、ニューカマーとしてやって来ているので、もしかしたら、チェサをやることはすでに教育されていることなのかもしれない。

 こんな空間に耐えられなくなった私は一度、手伝おうとしたが、伯母は「良いから、座ってて!」と言って、私を手伝わせなかった。このことを父と母に相談したところ、「伯母さんはそれを誇りだと思っているんだよ」と話した。それ以来、私は伯母の手伝いをしないようにしている。

 伯母が韓国の女性を全て代表しているとは限らないが、そんな社会的役割をこなしている女性こそが「女性」であると考えている人が極めて多いと思う。

 こんな問題をこの時期に書いたのには理由がある。それは朴槿恵大統領の辞任を求めるデモの中で様々な芸能人が参加し、会場で歌を歌ったり、コントをしたりした。その中で、ある芸能人の歌が女性を誹謗中傷するものだとして、デモの当事者たちの話し合いでパフォーマンスを取り止めたことがあった。

 そのニュースに触れたとき、何だか韓国でも少しずつ状況が変わりつつあるのかなぁと思った。「女性大統領」という問題ではなくて、「憲法に違反するような行為をした大統領」として朴槿恵大統領を批判するのであればそれで良いと思う。だが、今回のことをきっかけに女性への批判ということになってしまえばそれは違う。幸いそのような方向ではなく、憲法に違反するような行為をした大統領として国民から批判されている。

 今後どうなるか分からないが、そんなことはチェサで働き詰めの伯母を観ていると、とても希望のようにも感じるのと同時に伯母がチェサで働くという行為も私は受け容れなければいけないのかなぁとも思っている。「これが正義だからこのことには従わなくてはいけない」とするのは何か違う。伯母にとってそれが誇りであるのであれば、何もしないということには違和感があっても、尊重したいし、見守っていきたい。もし、女性の権利を片手に伯母に対して何か言うのであれば、その態度こそが「女性はこうでなければいけないという」どこかで見た光景を私自身が再生産してしまうと思うからだ。

伯母が「もう止めたい」と言った時にどんな言葉を私が掛けるのかということだろう。

 デモの現場でのちょっとしたできごとは海を越えたここでも、小さな生活のこととして起きている