あのトランプが当選した。
まさかの結果に唖然としていた。普通、トランプみたいな候補は予備選で振るい落とされるなんて思っていたけれど、そんなことはない。
トランプは確かに当選してしまった。
様々な世論調査によればヒラリーが優勢ということだったし、まさか女性蔑視や外国人を蔑視する人間が当選することはないだろうとは思っていたけれど、最後までヒラリーに対して、優勢な投票傾向は変わらず、最後は大統領の椅子をゲットした。
ヒラリーの支援者が昔からアメリカで言われている選挙人制度の欠陥を言い出しているがそれは余りにも悪手だ。
確かにポピュリストを選ばないために設けた選挙人制度でこんな結果になったのは皮肉だが、勝敗が決してしまった以上、後出しジャンケンのように言うのは何かずるい。
ただ、それだけヒラリーを支援した側にも危機感があったということだろう。
その気持ちは分からないではない。
外国の選挙を観ていて、こんな陰惨な気持ちになったのは始めてだ。日本とアメリカの関係上、様々な言い方はあるかもしれないが、あのアメリカでもこういう人物が選ばれたのかというショックだった。
トランプが最初から嫌いだったわけじゃない。
むしろ、昔からなんか良く出てくるおじさんだなぁと思っていた。
例えば、「ホーム・アローン2」
小さい頃からよく観ていた映画だったからちょっとだけ出ていたのを何故か憶えていた。
それと自分は読まないような自己啓発本にもトランプの名前は出ていた。
だから、出始めた当初はあの有名なアメリカ人のおじさんかと思っていたが、蓋を開けてみたらとんでもなかった。
次から次へとマイノリティーを餌食にした発言ばかりを話し、国際関係についても滅茶苦茶なことばかりを話す。
ただ、どうやらアメリカの白人の貧困層からは人気で、かなり景気の良い経済政策を打ち出しているということは聴いたことがある。
今回の大統領選ではしっかりとした学問的な調査が必要なのだろうが、そのような一面があったことも間違いはないだろう。
ヒラリーが良かったかと言われればそれもそれでなんだけれど、まだマイノリティーを餌食にしないヒラリーの方に希望はあった。
トランプが大統領選当選後、少しずつではあるが「本音」を話すことが良いという風潮になっているようだ。
それは日本でも同じで、トランプ当選後にポリティカル・コレクトネスに疑問を持っていた人々がやはり「本音」を話すのは良いことなんだ。矛盾を抱えているリベラルはクソなんだ。と言い始めている。
これは民主党側にとって社会の漠然とした不安に対して、どうすることもできなかったことは確かに大きな敗因だったのだと思う。当然、その中にはどうやって「お腹が減った」人たちを取り込んでいくのか?ということも敗因の中にあるだろう。
そんな「お腹が減った」人たちと漠然とした不安を持った人たちは満足させてくれそうなトランプを選んだ。
これが結果的にどうなるかは分からないが、そんな満足を求めてお腹が減ってしまった今を満たしてくれそうなヒーローが魅力的だったということだ。ただ、そのヒーローはお腹は満たしてくれるかもしれないが、それだけで良いのだろうか?
お腹を満足させることの前に「お腹が痛い」ということを聴いてくれるヒーローなのだろうか?
お腹が減った状況で生きていくことはきつい。自分は貧困層の生まれでそういった苦労はしてこなかったが、不思議とそういう苦労をしていた友人たちがたくさん居た。
中でも大学時代の親友はバイトをいくつも掛け持ちして、妹の弁当まで作り、大学にも通っていた。
ある時、ゼミの討論の場で当時あった国会前のデモに参加することの話になった。
ゼミの大半の人々が「デモに参加するべきだ」と言っていた中で、私の親友だけは「電車賃が無くてデモに参加できない人ってどうなるんだろう?」と言い始めた。
彼の切実さは私の心に深く刻まれた。
彼との日々の中で心に刻まれた言葉は他にもある。
私も彼もお互いに妹が居た。
私はどちらかと言えば、妹と喧嘩をしながら、面倒をみてもらうタイプだが、彼は妹を可愛がり、妹の世話をよく見ていた。
お兄ちゃん同士が集まると不思議と妹の話になる。
どういう話の流れだかは分からないが、妹の話になった時、私の妹は専門学校に行くと話をした。そしたら、彼はどうしても妹を大学に行かせたいと話をした。
やっぱり凄いなぁと思いながら聴いていたが、特に彼のこんな言葉が私に突き刺さった。
「本当に自分は無気力な奴だったし、食べて行くために大学に入ったけど、こうやってゼミに入ってから本当に大学に入った意味が分かるようになったんだよね。妹にもそんな大学生活を送って欲しいよ。」
実はこの私も大学でストレートで入れたわけじゃない。
高校3年の夏ぐらいに入学金が用意できないという理由で大学には行かず、浪人した。
翌年になりなんとか大学には入れたが、大学に入った後はそんなことを忘れて自由に好きなことばかりをしていた。
なんだか彼の言葉を聴いて、私は恥ずかしくなってしまったくらいだ。
彼のように経済的な苦労をして、お腹が満たすことを自分の力でしている人にとって、教育はそれくらい大事なものだった。
お腹が満たされるようになれば、教育だって受けられるし、チャンスがある。
それは事実だと思う。
お金は人を自由にするし、自分に選択肢を与えてくれる。
そんな選択肢を私は就職してから様々な形で味わっている。
だが、お腹が満たされれば良いというわけではない。
何故ならば「お腹が減った」ということすら言えない人もたくさん居るのだから。
私の父母やその上の伯父の世代はそんな「お腹が減った」ということすら言えない世代だ。
伯父たちが普通の日本の学校に入れば、「外国籍」を理由に学校に入学も出来ず、民族学校に入るようなことが起きていた時代だった。
当然、そんな時代だから喧嘩もたくさんしたそうだ。
民族学校の校章をつけていたので、校章で喧嘩を売られたことがたくさんあった。
何故か毎日のように駅で喧嘩を売られては喧嘩し、家に帰る日々。
そんな日々を伯父は送っていたのだ。
伯父の話をするときに、弟である父は極めて誇っているかのように言う。
でも、そんな話を私自身は誇らしいという感情よりも情けないという感情とそうやってでしか生きられない時代のことだったのだなぁと思いながら聴いていた。
伯父はその後、夜間の大学を出て、祖国関係の金融機関に勤めた。
そんな状況は父や母もそうだった。
特に母の話は強烈だ。母はその当時、韓国籍だったが、何故か公務員を勧められた。
母が高校生の頃から少しずつ、外国籍の地方公務員が認められるような時代になってきたのだ。しかし、母はその申し出を断った。
公務員になったとしても差別される立場は変わらないからだと思ったからだという。
母もまたそんな差別の中にあるので、様々なところを転々とし、今では2人の孫を持つおばあちゃんになった。
父や母、そして、伯父たちはそんな事実の中で声を出さず、いや、出す方法が分からず、ひたすら耐え忍びながら生きていた。今であればそんなことは差別的なことであると言われただろうし、しっかりと法的な措置も取らなければいけないような事態になっていただろう。
今の日本の首相は「昭和の良かったころ」が大好きなようだけど、あんな首相の大好きな昭和なんていうのはこんなもんなのだ。
差別が今とは違った形で転がっていて、それが当たり前のように受けとめなければいけない時代。
そんな時代は決して、遠い昔のことではない。
本当にひと世代前のことなのだ。
確かに高度経済成長の頃は良い時代だったかもしれない。
しかし、高度経済成長の頃にあったのは「お腹が減った人に対し、お腹を満たす」人々とそんな人々とは別に「お腹が痛い」と言っても、誰も相手にしてくれない、そんな空間こそが当たり前だった。
「お腹が満たされる」ということも確かに大事なのだが、「お腹が痛いと言える」ことも、とても大事なことなのだ。
確かにお腹が満たされなければ生活はできない。
それは当たり前の話だ。
資本主義社会で生きている限りは、お金を稼ぎ、そのお金で自分のやりたいことをする。
しかし、それと同時に「お腹が痛い」と言えなければとんでもない病気にかかっているかもしれないのに誰からも無視されて最悪、死んでしまうことになる。
「お腹が満たされること」も「お腹が痛いと言えること」の両輪があって初めて生きていける。
だが、今ある危機はそんな「お腹が痛いと言える」権利を自分のお腹を満たしたいが故に平気で「綺麗ごと」として無視することにある。
皆が綺麗ごとを好まないことはもはや当たり前かもしれない。
綺麗事がまかり通って、言いたいことが言えなかったり、やりたいことができなかったりする。
さらに困ったことに今、この綺麗ごとを糾弾しているのは「お腹が空いてしまってどうしようもない人」ではなくて、自称腹が減った人を代弁する人々なのだ。
彼らの話には「お腹が空いてしまってどうしようもない人」は出て来ない。
出て来るのは驚くことに「自分だけが満たされたい」というだけ。
そんな欲望が止まらないのも分からないではない。
「お腹が減った」ということを経験していればその欲望が重要であると思うし、ひたすら食べていくしかないと思ってしまう。
世の中はよく分からない方向に進んでいるし、しかも、訳の分からないことを言っている人たちはたくさん居て、そいつらがやたら自己の欲望に入って来るからなんだか息苦しい。
その中で出て来たのが、「お腹が痛いと言える」権利を「綺麗ごと」として無視して、ひたすら欲望を優先することととりあえず、気に食わない連中は敵として処理することだった。
「お腹が痛いと言える権利」はこうやって無視されることになりつつある。
だが、そんな自称腹が減った人たちを代弁する側の声もかつては「腹が痛い」と叫ぶ人たちと同じ声として扱われ、ちょっとそういったことを主張すれば「アカ」として言われる時代があった。それもつい最近のことだ。
そんな中で育まれてきたのが民主主義と立憲主義だった。
国家のよる統制ではなくて、自由にあらゆる人々が同じ声の大きさで喋るということをせめても実現させて、その声と皆で決めた憲法で国の政治を動かしていこう。
民主主義をやっていくのにあたってはルールを作った。それは多数決の原理に従う事、そして、少数者の存在は必ず尊重すること。このふたつのルールがあって初めて民主主義が成り立つ。
とても皮肉なことなんだけど自称腹が減った気持ちを代弁する人たちにとって、そんなこともどうでも良い存在らしい。しかし、彼らの発言の自由は「腹が減った人たち」や「お腹が痛いといっている人たち」の努力によって作られてきたものだ。
そんな大事な原則が少しずつ手放されようとしている。
大事なはずの少数者の権利というやつがそれも「綺麗ごと」とされてしまって、困ったことに多数決の原理のみがまるでハンマーのように用いられようとしている。
トランプはそんな民主主義のルールを綺麗ごととして、見事に喝破し、自称腹が減った気持ちを代弁する人たちに支持されている。
さすがビジネスマンだ。
どこにどういった欲望があるのかを良く分かっている。
そして、そんな綺麗ごとを喝破しようとしている人たちが次々と現れている。
しかし、そんな綺麗ごとを喝破しようとしている人たちもまた綺麗ごとの上に乗ってものを言っていることだけは忘れてはいけない。
「お腹が減った」ことも対策しなければいけないし、それに対策できなかった人々にも責任はある、でも、「お腹が減った」から「お腹が痛いことを言う自由」まで壊すのはどうなんだろう?
お腹が痛いと言う自由は綺麗ごとですか?いいえ、「私が人です」と示すためのものです。