彷徨い続けた画家

 

 先日、馬喰町で開かれているジミー・ミリキタニ展に行ってきた。ジミー・ミリキタニについては大学時代に受けていた文化人類学の授業で映画を通して知っている人だったけれども、こうやって、ジミー・ミリキタニという人の作品を観に行くのは初めてだった。

 このブログを読んで「ジミー・ミリキタニって一体誰?」と思った人が多いと思う。

ジミー・ミリキタニことジミー爺さんはニューヨークのストリートで絵を描き続けていたホームレスのおじいちゃんだ。

ホームレスのおじいちゃんなので誰かから貰った色鉛筆やマジックで絵を描いている。

その絵を見てみると一見可愛らしい絵に見えるのだけれど、何か圧倒するものが宿っていて、そんな圧倒する何かと色鉛筆で描いた綺麗な色彩に引き込まれていく。

そんな絵を描くジミー爺さんを追ったドキュメンタリー映画である「ミリキタニの猫」では、ジミー爺さんの知られざる人生を追っている。

 ジミー爺さんの絵で最も興味深かった絵は何と言っても猫の絵だ。

ミリキタニの猫」を意識したわけではなくて、この爺さんの描く猫は寂しそうな表情を浮かべたり、人に会いたくてしょうがないような表情をしている。その表情がたまらなく良い。

私の中で猫は自由で気まぐれな生き物というイメージだけど、ジミー爺さんの描く猫を見ていると思わず、絵の世界に自分が飛び込んで、頭を撫でて、抱きしめたくなっていくのだ。

でも、そんな愛らしい猫を描くようになる前のジミー爺さんの虎の絵(どっちもネコ科ですね)は誰をも寄せ付けないようなとても怖い絵だった。

まるで「ここに俺は立っている!」と言わんが如くのなんだか鬼気迫る絵。

映画の中でジミー爺さんの絵を描いているシーンを観た時にそんな鬼気迫るようなジミー爺さんをファインダーは写していた。

 実は私はジミー爺さんの生前を知っている人のトークショーに行ったことがある。

それは「ミリキタニの猫」の続編である「ミリキタニの記憶」の試写会で、試写の後にジミー爺さんと親交のあった人がトークショーを行なっていたのだ。

その親交のあった人の中にこんなことを言う人が居た。

「ジミー爺さんは映画になる遥か、昔、本当に殺気立った目をしていて、誰も近寄らせないんですよね。」

そんな言葉を私はジミー爺さんの描いた鬼気迫る虎の絵の前で思い出していた。

 私は数あるドキュメンタリー映画の中でも、「ミリキタニの猫」が大好きだ。

まず、主人公のジミー爺さんが可愛らしい。

ひたすら絵を描いている時もあると思えば、ニューヨークの日本庭園で勝手に植物を獲っちゃったり、監督のリンダさんの帰りが遅いと言う理由でまるでリンダさんの父親のように怒ってみたり、デタラメな空手の型を披露してみたり。

話す英語は滅茶苦茶なんだけど通じてしまう不思議なところもあったり(笑)

でも、そんな自由で可愛らしいジミー爺さんには悲しい歴史があった。

 ジミー爺さんはアメリカ生まれで、家族もアメリカに居たが、単身日本に渡り、日本で青春時代を過ごしていた。

 ジミー爺さんが青春時代を謳歌していた頃、今みたいに戦争の足音が聞こえる時代だった。

当時、日本で絵の勉強をしていたジミー青年は兵士になりたくないと言う理由で、大好きな絵を学ぶためにアメリカに行った。

(帰ったじゃないんだよね?ジミー爺さん。ごめん。どっちでも良かったかな。)

だが、アメリカもアメリカで日系アメリカ人を収容所に入れる法律を作り、日系アメリカ人を次々て収容所に入れていた時代だった。

絵を学びたいと思ったジミー青年も収容時に収容され、アメリカの市民権も奪われた。

やがて戦争が終わるが、市民権が回復されたことも知らず、また家族ともバラバラになり、絵を描きながら様々なところを転々とし、最後はニューヨークのホームレスになった。絵を描き続けることは止めなかったけど。

 彷徨い続けた人生の中で彼が忘れなかったことは収容所で亡くなった少年のことだった。

収容所で亡くなった少年はジミー青年に懐いていて、絵を教えたり、一緒に遊んだりしていたそうだ。

映画の中では語られなかったが、打ち捨てられたジミー青年にとって心を癒してくれるマブダチ存在だったのかもしれない。

 しかし、戦争はとても残酷なもので弱い奴から死んでいく。

そんな残酷な法則にジミー青年のマブダチは死んでしまった。

日本とアメリカの戦争の中で、ジミー青年には一生晴らせないかもしれないくらいの暗い影になってしまったのだ。

 そんな暗い影を救ったのはこの映画だった。彼はニューヨークの路上で絵を描いていた時にたまたま出会ったある女性ドキュメンタリストに出会い、最後には彼があの少年との思い出が詰まったかつて収容されていた収容所まで行くことができた。そして、唯一生き残っていたお姉さんに会うこともできた。

 ジミー・ミリキタニの奇跡の話を軽く説明するとそんな話だ。ジミー爺さんがかつてアメリカの地で苦労してきたこと。ジミー爺さんが受けた傷。ジミー爺さんが最後は癒されたこと。

そんな人として美しい奇跡の話。

映画批評としてあらすじを言ってしまうのは反則なんだけど、これを言わなければいけない。

この映画の角度を変えてみるとまたちょっと違う視点になってしまうこと。

それはジミー爺さんをかつてアメリカの迫害の中で苦労した、アメリカを代表する「日本人」画家としてしまう視点だ。

確かにジミー爺さんは「日本人」にこだわり続けていた。

ミリキタニ一族が元々、武士の家だったことをカメラの前で嬉々として話してみたり、映画を観るにも「日本」を代表する俳優三船敏郎のサムライ映画ばっかりみたがる。

このこだわりには自分がアメリカの市民権を奪われたという屈辱的なことがあったのだろう。彼はアメリカの社会保障制度も受けたがらず、日本人として生きていたい。日本の社会保障制度の中で生きていたい。と発言したこともあった。

 良く良く考えてみたら私たちはこんな「日本人として生きていく」なんていうことを言いがちだ。(私の場合はどっちつかずなんだけどねー笑)

海外の映画祭に行った時に日本人監督や俳優や女優が受賞した時に言う言葉は必ず「日本人として海外の賞を受賞したのは嬉しいです」という言葉。

「もう、自分の実力で取っちゃいました!」なんて明るく言えば良いじゃないとお茶の間の私は思うんだけど、やっぱりそんなことは言わない。

謙遜しているのか、それとも俺/私の演技は「日本人」だからこそ出来たからなのか。

そんなことは受賞した本人たちしか知らないことだ。

 ジミー爺さんの場合はこんなナチュラルな言葉とは違う。もっと深い深い傷になっているからこその「日本人」だ。

日本とアメリカの戦争に巻き込まれ、アメリカの中で差別を受け、祖国であった日本にも帰れず、戦争のせいで大事な親友まで喪った。

彼がこんなことを言いたくなることは本当に良く分かる。

私自身も明日、韓国と日本が戦争をしてしまったら国籍を奪われ、無国籍として生きなければいけないかもしれない。

街中で差別は蔓延り、大多数が無かったことにしていく中での絶望は計り知れない。

そんな時に頼るものは自分のアイデンティティを強化することだ。

韓国人として生きるとか日本人として生きるとか、どっちつかずな自分をひたすらに押し込めようとする。

そうでもしなければやってられない。

 自由の国アメリカの中で自由を得られず、戦争を理由に日本人だという理由で収容所に入れられ、親友を喪くした彼にとって、戦争はとても切実な問題で、ジミー爺さんにとって、怒りの原点だった。そして、「日本人」であることを示すことはそんな怒りを示すことだったし、ジミー爺さんの語り継ぐ表現の方法だった。

それだけジミー爺さんはギリギリの中で生きていた。

 だけど、自分の中に切実な問題を持っていればいるほど、「この問題は私にしか分からない」というなんだか訳の分からない独りよがりに陥ってしまう。でも、そんな独りよがりだけでは何も解決にはならない。「そうなんだ。」「そんな問題があるんだ。」で終わってしまう。

そんな経験何回もしたけれど、いつの間にか自分の中の怒りが優先してしまって、対話にはならない。

ジミー爺さんが描いて、私が観た虎の絵はそんなジミー爺さんの怒りと対話ではなくて、強烈なメッセージを発していたからこそのジミー爺さんの自画像だったのかもしれない。

 誰にでも噛み付く孤高の虎としてアメリカという敵国で生きていたのだ。 

  そんなジミー爺さんはリンダさんというドキュメンタリストに出会うことでまた変化していく、自分の中にあった怒りがリンダさんというかつてであれば敵同士だったかもしれない人と出会い、リンダさんも知らなかった収容所の話を話し、絵を描き続けた。

 ジミー爺さんの絵は威圧的な虎からだんだんと愛らしい猫を描くようになってきた。

その猫は歴史を超えて、ずっと描き続け、向き合い続けてきたジミー爺さん自身だったのだ。

 だからこそ、私はジミー爺さんを「日本人」だから素晴らしいのではなくて、「ジミー・ミリキタニ」だからこそ素晴らしいと言いたい。

彼はただ虎のように叫ぶのではなくて、誰かと繋がりたくて絵を描いていたのだから。

ジミー爺さんを「日本人」画家として国家や民族の中に回収するのではなくて、ジミー爺さんをひとりの偉大な画家として観ていくべきだ。

それを思うのと同時にジミー爺さんの絵画が本当に評価される日はいつになったら来るのだろうか?という疑問が出て来る。

安易な「日本人の代表」を語る芸術家が居る中でジミー爺さんの本当の素晴らしさは見逃されてしまう。

ただのアメリカで苦労し、活躍した「日本人」画家としてしか観られず、ジミー爺さんの絵を評価する人間は居ないだろう。

ジミー爺さんの絵が民族や国家の中に組み込まれていくのは大変口惜しい。

彼の彷徨い続けた生き方そのものにこそ、普遍性があるからだ。 

私は生き方として、ジミー爺さんの絵を観ていきたい。

 良く考えてみれば人間はずっと旅をしてきた動物だ。

 ヒトが生まれたのは150万年前だとすれば、定住を始めたのが1万年前と言われている。

149万年の間、ヒトは旅をし続け、美しい文化を咲かせていった。

面白いことにヒトの脳は旅をすることによって発達させていったそうだ。そして、人との繋がりを発展させていったのも旅だった。

だが、そんな歴史はあまり注目されない。

彷徨うことはヒトの本能なのに、彷徨うことよりもどこかに自分を求めたがる。

あたかもそれが自分自身の本質であるかのように。

でも、そんな本質と思っている場は様々な人間の繋がりと彷徨いの中で生まれてきたものだ。   だからこそ、私は場所よりも場所を作っている人の方が愛おしい。

この場所に行き着くためにどういった旅をしてきたのか、どんなものを見てきたのか、どんな風景があったのか。それを知りたくてしょうがない。

そして、不思議なことに様々な場所を作っている人たちの色が様々な混じり合う瞬間が素敵だ。それを文化と呼ぶのだと思う。

  昔、エドワード・サイードが残した言葉がある。

 サイードもジミー爺さんと並ぶ彷徨い人だ。パレスチナ人だが、パレスチナを追われ、エジプトに住み、さらにそこからアメリカに渡った。しかも、彼のお墓はレバノンにある。

 サイードは亡くなる前に友人のタリク・アリのインタビューであることを語っていた。

それは自分のアイデンティティを探ることなんかよりも自分のアフィリエーションを探すことが大事だということだった。

 つまり、サイードは血や場所なんかよりも人の繋がりを重視したのだ。

 彷徨い続けるからこそ人は人と繋がりたいと思いたいのかもしれない。

表現をしたいと思う根源にも誰かと対話したいというそこはかとない欲求があって成立すると思う。

自分の周りのことを誰かに表現したくてしょうがないんだから。

誰かに知ってほしい、違う痛みを持った誰かと話をしたい。

そう思った時に彷徨い続けることがスタートするのかもしれない。

それは自分を高めてくれるアフィリエーションを追うための彷徨いだ。