当事者の聲の形

 私はTwitterをやっているけど、いつも不思議なSNSだなぁと思いながらやっている。

色々不思議なところを挙げていけばキリが無いんだけど、不思議だなぁと思うことは個人によって違う時系列が目の前にたくさん出てくるところだ。

こんなことはSNSをやっていたらあんまり味わえない。

 例えていうならこういうことかもしれない。

今日は三笠宮が亡くなった。

ニュースを見ていたら8時半ぐらいに亡くなったようなのだけれども、私はその時間、いつものように会社に着いて、仕事の準備をしていた時間だ。

三笠宮が亡くなった瞬間と私が仕事の準備をしていた瞬間が同時並行で起きていた。

言葉にすれば簡単な話だが、言葉にしてしまうとなんだか奇妙な時間軸になっていく。

1つの世界の中で複数のことが同時に起きている事実。

この事実は当たり前の話なんだけれども、考えれば考えるほどなんだか触れてはいけない何かに触れてしまっているような気がしてならない。

だけど、そんな触れていけない何かを可視化して、伝えてくれるのがTwitterだ。そして、そんなTwitterが時にとても面白い時系列を僕にプレゼントしてくれる。

 昼休みにTwitterを見ていたら、あるツイートとあるツイートが同時並行で流されていた。

一方は震災で被害を受けた大川小学校の裁判で原告側の弁護士が出した垂れ幕に対して、勝手に亡くなった子供達を用いたことに違和感を覚えるツイートもうは高江の基地反対運動に高江に住む住民たちが「迷惑」しているツイート。

こんな何の関係もない話が並ぶんだなぁと思ったが、こんなタイムラインを見て、このふたつの出来事はクロスしているのではないかと思った。

それは「当事者」という視点だ。

 「当事者」が何かを喋るのは本当に難しい。当事者であるが故に喋りたいことがたくさんあるし、当事者であるが故に喋れないこともある。

 私は在日コリアンの当事者として何かを語ることが多くなった。それは自分が在日であることをアピールしたいわけじゃなくて、社会的な排除の論理が少しずつ私の日常にも迫ってきているからだ。

そんな日常の中で喋ることによって、何とか今の悪い状況を変えていきたいという気持ちがあって、そんな気持ちが今の私を支えていると思う。

私たちが考えている常識とは違う軸がそこにあるだけで、何かが変わることに期待しているのだ。

 しかし、期待とは裏腹に何か当事者として語るのを止めてしまおうかなと思うことがある。

私が在日を語る時、もう「日本籍なのだから日本人として生きていきなさい」という反応が来た時は特にキツイ。

確かに私は日本籍なのだけれど、常に排除された可能性を持っている。

アイデンティティーの迷子として話しているのではなくて、私として話をしているのにと思い、黙って、言葉が足りなかったと思って、とりあえずアイデンティティーの迷子としての地位を甘んじてしまう。

 それなら、在日という存在を理解していて、支援している人に話をするならそれで良いの?となる。確かに在日に興味を持っている人に在日の話を話すのは正直楽しい。

ただ、その楽しさは本当に良いのか?

私という人間を在日という枠に当てはめて、その中で生きている「可哀想な人」というショーケースの中に入れてしまう。

日本という共同体の中で生きづらさを感じているのも事実だけど、同時に何気ない生活の中に幸せを感じる自分も居るし、下らないことを言ったり、頭の悪いことを考えていたりする自分だって居る。

在日という小さなショーケースに居る私はいつの間にかショーケースのものになってしまって、なんだか私には分からない異形のものになって、私を襲う。

SNSで世界は決して1つではないことを目で見ているはずなのに。

 「当事者」であればあるほど、当事者として生きている面とそうではなくて普通の人として生きている面が線引きできない世界の中でその中を行ったり来たりしながら生きている。

そんな複雑な世界に生きていれば言葉で語ることが難しい。

一体、「当事者」はどう語れば良いのだろう?

  私は「当事者」を隠すようなことをする必要もないと思うし、かと言って「当事者」というショーケースに入ってしまうのにも違和感がある。それは問題を隠すことによって問題は解決しないし、当事者性の快楽に身を委ねたって、「当事者」の枠にはめられて、ショーケースのものになってしまうからだ。

実は「当事者」を隠させることも「ショーケース」に入れることも表裏一体の作業なのではないかと思った。

どちらも「当事者」という存在をどこか遠くのものにしてしまって、いつの間にやら、身の周りにはそんなことが無かったかのようにしてしまう。

そんな無かったかのようにしてしまう構造自体が「当事者」から言葉を奪ってしまう根源なのだ。

だからこそ、「当事者」には時に寄り添いながら、「当事者」が立っている立場を一括りにするのではなく、丁寧に見て、聴いて、触れて欲しい。

そんなことが寄り添うということなのだと思う。

 これは聴き手だけの問題じゃない。「当事者」も語ることを求められた時にどう語るのかが常に求められている。ショーケースの中の自分で「共同体の私として語る」のか、それとも何も語らず、無かったかとにする共犯になるのか。

常に私が居る立場を疑いながら、言葉を紡がなければいけない。それこそが「当事者ではない」人々と繋がっていくための大切な何かだと信じている。

ある意味だとそんなことが求められている側にこそ希望があるのかもしれない。

私が居る立場を疑い続け、言葉を紡ぐ立場は確かにキツいがそんな中だからこそ、言葉の中に未来を宿すことができる。

私はそんな可能性を信じているからこそ、言葉に向き合い続ける。

私の言葉がいつか届くことを祈りながら。