ここに何かを書こうとしながらじっくりと言葉が溜まるのを待っていた。私が言葉を溜めている時に今、居る世界では様々なことがあった。どの事もあまりにも酷くて言葉が出ない。
大手企業の私と同じ年の社員が過労死した話、沖縄の高江の話、今も止むことはないヘイトスピーチの話、盛り土があるはずのところに盛り土が無い東京オリンピックの話…なんだかこんな世界に居ることが嫌になってしまうようなニュースばかりが画面を通して、私の目に飛び込んでくる。
当然、ネットだと動画も配信できるようになっているし、誰も修正しようとしないからテレビでは流せないようなエゲツないリアルを見ることもできる。
そんなモノばかり見ていたら、精神的に参ってしまうだろう。
現にこの私はインターネットが無い世界こそが良いんじゃないかと思ったりすることもある。
中にはもう外の世界で起きている酷いことを「あー、またこのニュースか…」なんて言って、外で起きていることに慣れてしまう人たちも居る。
そうやってひとつひとつ言葉が奪われてしまうと何も対処できない。そして、いつの間にか変な方向にいってしまう。
そんな恐ろしい時に私は言葉を言える人間になりたい。それでしか伝わらないと思うから。
今日は沖縄の高江で嫌な事件があった。
高江のヘリパッド反対運動をしている人に対して、大阪府警の機動隊員が「土人」と言い放った。
このニュースを知った時に何も言えない気持ちで支配された。
その気持ちは呆れてしまった気持ちと公権力に居る人が「土人」という言葉を使ったことへの恐怖感からだった。
今時「土人」なんていう言葉は「北海道旧土人保護法」みたいな高校で習った日本史の中でしか聴いたことがない。
勇気を振り絞って、時間が空いた時に「土人」と言い放った瞬間の動画を観たが、自分の年齢(24歳)とさして変わらなさそうなどこにでも普通に居る警察官のお兄さんがそんなことを言っていた。
多分、彼が私の住んでいる地域に居れば、道交法違反で自転車切符を切られている私と会うことができたかもしれない。
そんなことを思えば思うほど、何かを語るということよりもただ黙ってしまうことを選んでしまう。
その沈黙はニュースに慣らされた沈黙ではない。私自身にとってとても身近に感じるからこその沈黙だった。
私は日本籍の在日コリアンだ。言ってしまって良いのか分からないが、沖縄の人たちと立場は似ている。
植民地の体制の中で、今でも生きている存在だ。
そんな植民地の体制の中では本当にどうしようもない不条理が多い。挙げていったらキリがないくらい(笑)
そんなキリがないことを外で言うことも多くなった。
何せキリがないたくさんのことが私を襲うようになったから。
そんなことを言う度に言われることがある。それは「あなたは少数派だからしょうがない」とか「そういう中で生きているんだからしょうがない」、「君が少数派であることを隠せば良い。そうすれば気にしなくなる。」「あんまりそういうことを言っていると利益にならない」という言葉だ。こんな言葉を聞く度に呆れてものが言えなくなってしまう。
少数派だろうが多数派だろうがその人の権利を奪ってはいけないのが民主主義のもう1つのルールだ。そんな当たり前のことを無かったことにしてあたかも自分が常識人のように語ろうとする姿勢は何よりも醜い。
クラスのいじめを見ているようだ。
「あいつは〇〇だからいじめてやろう」
なんだか小学校の教室に居るような感覚にもなる。
マイノリティーはマジョリティーのために存在するのだろうか?歴史的な経緯からマイノリティーになった立場からすればそんなマジョリティーの利益のためには生きていないと言いたくなる。ただ単純に普通の生活をしたいだけなんだからその普通の生活をするために猿轡をかませられなければいけないのか?そして、マジョリティーの利益になるためだけの存在にならなければいけないのか?
よく考えてみたらこれも教室の理屈と同じだ。
いじめられっ子がクラス全体のためにピエロになって全体のサンドバッグになっていく。
なんか教室の理屈だけは変わらないという虚しさだけが残る。
そうやって猿轡をされたまま都合の良い存在で居なきゃいけないのか?
あの「土人」という言葉には沖縄に猿轡をしている言葉だ。
「土人だから経済を潤す私たちに感謝しろ」「土人だから基地を作っても良い」「土人だからいざとなったら見捨てたって構わない」
そんな理屈が沖縄の話でも罷り通っていたのだろう。
沖縄には基地に関して様々な意見があるのは知っている。
そのどれもが当事者として悩み、様々な葛藤がある中で出した各個人の結論だ。そんな結論を「土人が近代も理解しないで話し合った戯言」とでも言いたいのだろうか。
「土人」だから猿轡をさせて、何も喋れなくしてしまう。
いざ、声を出そうとすれば「やっぱり土人だから」と言う。
そして、都合の良い時は「俺様が育て上げた立派な近代人」
そんなことが一体いつまで続くのだろう。
あの若い機動隊員はふと言ったにしか過ぎなかったと思う。上司からの命令でやらなければいけない仕事をやっていた。それだけにしか過ぎないのかもしれない。
私も彼と似たような年齢なのでどこか同情してしまう。
ただ、言われた側としてはその言葉ひとつで固まってしまう。私が「チョーセン人」とか「チョン」とか言われるのと同様に。
あの「土人」という言葉は目取真俊さんに向けて言った言葉だという話がある。
目取真さんは言葉のプロだ。
そんな言葉のプロでもあの言葉の前では様々なことが逡巡したと思う。
そんな彼が選んだ方法は映像で今ある瞬間を残したことだった。
その映像はインターネットを通して、私の下にも届けられた。
なんだインターネットにも希望はあるじゃん。
いや、インターネットじゃない。
希望は人にあるかもしれないな。