まぁ、いいや、そこにいろい。

 談志師匠を好きになったのは若いころに演じていた『源平盛衰記』をYouTubeで聴いたのがきっかけだった。

 私が聴いた回では談志師匠がいきなり客席に向かって「立っているのは大変だなぁ。」と語りかける。どうやら、このときのひとり会は満員札止めで立ち見の客がいたらしい。

 「チケットを多く売りすぎるのも問題だなぁ。」とひとりごとのように言うと、談志師匠は立ち見の客にこんな言葉を投げかける。

 「まぁ、いいや、そこにいろい。」

  落語に完全無欠な聖人なんて出てこない。むしろ、どっか抜けた人たちばかりが出てきて、騒動を起こす。そういう人たちは現代だと「生産性がない」とレッテルを貼られておしまいなのだろうが、落語の世界ではどんな人でも「まぁ、いいや、そこにいろい。」でおしまい。「生産性」なんて追及した日には「お前は野暮だね。」と馬鹿にされるのがオチなのだ。

 談志師匠はそんな落語を「業の肯定」と定義したけれども、私は落語を「まぁ、いいや、そこにいろい。」と定義したい。

 先日、東上野の古い焼肉屋に行ったのだが、エプロンをしたおばあちゃんが一生懸命、客の応対をしていたが「こんな光景を見ることも無くなったなぁ」と少し寂しく思った。

 昔は焼肉なんてもてはやされる料理ではなかった。来るお客さんと言えば「同胞」ぐらいで、日本人のお客さんが現れることなんて本当にごくわずか。

それでも、「日本人が寝ているときにも働かなければいけない。」と口癖のように言っていた1世のおじいちゃん、おばあちゃんたちは懸命に肉をさばいていた。

 この社会は「まぁ、いいや。そこにいろい。」とは簡単に言わない。だから、泥水をすすりながら、ときに無学であることをけなされても、その一言を聞くためだけに、何でもやっていたのだ。

 やがて、商売が認められると、街の人たちは「まぁ、いいや、そこにいろい。」と言ってくれた。いままで同胞しか訪れなかった焼肉屋にも日本人がたくさん来てくれるようになったし、油まみれの汚い店がオシャレになって、今では着物を着た女性が応対し、神棚まで飾ってあるような高級店も現れるようになった。
 こうやって生きているのは在日だけではない。街を歩いてみると中国から来た人たちの店に入るとご飯のすすむ麻辣湯を出してくれるし、ちょっと自転車で走ればパキスタンからやってきた人たちが作った美味しいカレーを食べられる。電車に乗って蕨まで行けばクルドの人たちが作った美味しいスイーツを楽しめる。

 彼らがお店のなかで一生懸命生きる姿に自分の祖父母を重ねながらその店の味を楽しんでいる。
 移民たちが生きる姿はときに汚く見えてしまうかもしれない。だが、私はそうやって生きてきた人たちを誰よりも誇りに思っている。彼らが私の代わりに苦労してくれたおかげで今の私があるからだ。

 今日、全国で「反移民デー」と言われるデモが開かれていたようだ。私の地元もその現場になっていて、駅前には「反移民」を訴える人とそれに抗議する人たちがいた。

 私はその穏やかではない光景を見て、こう思った。

『こんなに頑張っても、まだ「まぁ、いいや、そこにいろい。」と言えないのか?』

 日の丸や君が代が作られるはるか前の人たちはどんな人間が来たとしても「まぁ、いいや、そこにいろい。」と言っていたのかもしれない。

 落語の噺は中国やインドから由来したものが多いそうで、落語そのものが移民みたいなものだ。もし、「落語は日本人にしか分からない。」と言えば、サンスクリット語の「ア・バ・ラ・カ・キャ・ウン」から由来していると言われている「あばらかべっそん」が口癖の名人8代目桂文楽が「そんなことを言ったら天が許しませんよ!」と怒るだろう。

 同じ伝統だというのであれば、私は国旗や国歌よりも「まぁ、いいや、そこにいろい。」を誰かと生きていくための合言葉にしたい。

「統一された祖国」よりも

 韓国を旅して回っていたころ、貧乏留学生だった私はいつもチムジルバンに泊まっていた。

 チムジルバンとは24時間営業のサウナだ。

その昔、詩人の田村隆一さんが「平日昼間の銭湯の幸せを味わったらカタギに戻れない。」と書いていたが、チムジルバンもまったく一緒。平日昼間のチムジルバンの幸せを味わったら、普通の社会生活はできなくなる。

 韓国伝統式のサウナに30分ぐらい入って汗を流す。そのあと、シャワーを浴びて、水風呂に入る。これが気持ちいい。
「身体が冷めてきた。」と思ったら、ちょうどいい温度の温かい風呂に入って、体を温める。

 風呂上がりに待っているのは冷たいシッケだ。
キンキンに冷えてちょっとシャーベット状になっている昔ながらの優しい韓国の甘さを熱くなった身体に染み込ませるのは格別だ。

 これを味わったらきっと「カタギに戻れない。」

 あのチムジルバン体験から4年が経った。私が「大統領」と呼んでいた「お嬢様」はさまざまな人が戦って手に入れた憲政によって弾劾され、監獄行きになり、留学先の選挙区から選出されていた地元の弁護士出身の国会議員が大統領になった。こんな出来事に喜びを感じていたのもつかの間、次は3回も金正恩氏と会った。

 わずかな期間の目まぐるしい動きに戸惑いながら、さまざまな人から「今回の南北首脳会談についてどう思う?」と訊ねられる。

 こうしたとき、訊ねた相手が望んでいるのは「在日として南北関係が平和になって、統一の第一歩となるのは嬉しいです!」という熱い答えか、「文在寅は北が好きで、今の韓国は親北だ。」という冷たい答えのどちらかだ。

 どうやらこのパターンはほかの人たちもそうらしく、3回行われた南北首脳会談を赤ん坊が初めて歩き始めたときのように目を細めて喜ぶ「当事者たち」の熱気のこもった声が紹介されている一方で、今回の動きを「南が北にすり寄っている。」と冷たい視線を送る人たちもいる。

 南北朝鮮をめぐる言説はいつもこんな「熱い声」か「冷たい視線」によって分断される。どちらの意見でもない私はこんな言説を目の前にして、いつも「うーん。」とうなってしまう。
 ちょっと遠い親戚まで集めてみると、朝鮮籍韓国籍と日本籍を持つ人たちが顔を合わせる。このなかには済州島で統一を夢見ながら、「大統領閣下」を名乗る最後の李氏朝鮮の国王が率いる軍隊に殺された人もいるし、その影響からか、国家保安法という対共産主義者の法律があるゆえに、日本籍を持つ私のように韓国のチムジルバンでシッケを楽しめない人もいる。
 別の親戚に顔を向けてみると、かつてクリスチャンであるからという理由で「首領様」と呼ばれているソ連からやってきた革命青年の軍隊に追われ、大切な義兄を殺された人もいる。私はその影響で平壌に行くことはできない。クリスチャンである私も彼と同じようになってしまうかもしれないから。

 だから、集まったとしてもそれぞれが「本音」を話すことなんてできない。

 文在寅大統領が平壌で「私たち民族は優秀です。私たち民族は強靭です。」と語る声を聴いた。

 「民族」だの「国家」だのに振り回されている親戚たちを見ていると、この言葉がとても空虚に聴こえる。見えない38度線に生きている私は「70年間、南北に分断された民族が待ち望んだ統一された祖国」ではなくて、「さまざまな属性を超えて、切実な声をもった人たちの緩やかで誰も排除しないつながり」を望んでいるからだ。

 「統一」という言葉は「民族」や「国家」の名のもとに血を流した人たちの記憶を忘却するものではなく、そんなつながりを作る第一歩として、南北双方が自己の問題に向き合うための「合言葉」となってほしい。

 チムジルバンで冷たい水風呂に入ったあと、温かいお風呂に入る瞬間が一番、気持ちい。もし、チムジルバンに熱いサウナと冷たい水風呂しかなかったら体調を崩すだろう。
シッケもあの温かい風呂があるからこそ美味しい。

 今、私の目の前に広がる南北関係をめぐる言葉はサウナのように熱いものか水風呂のように冷たいものだ。しかも、率先して、そのどちらかを「代表」しなければいけない。

 こんなとき、私はあの温かいお風呂を懐かしく想う。

サウナで汗をかいた身体をさっぱりさせるためにも、冷たい水風呂で凍えた身体を温めるためにも必要だし、あのちょうどいい温度の温かいお風呂のような感じだからこそ言えることがあると思う。

 それにそのあとのシッケの味も美味しくなるんじゃないかなぁ。

私がこの人と本を出そうと思った理由

  去年の今ごろだっただろうか。

私のTwitterアカウントにある人からダイレクトメールが届いた。読んでみると送り主は埼玉にある小さな出版社の編集者で、ブログに書いた文章をその人が出しているコミュニティー雑誌に掲載したいので会いたいとあった。
 私はとても嬉しく思って、自転車で片道20キロもある彼女が店主をしていた蕨のブックカフェに向かった。

 彼女とはじめて会ったとき「本当に25歳なんですね。良かったー。」と言われた。Twitterですっかり年齢詐称キャラが定着してしまったと思って苦笑した。

 私は彼女に私の来歴を含めて、このブログにまつわる様々な話をした。彼女は私の話をじっくりと聞くと「長い間、在日の本を出したかったんです。もしよければうちで本を出しませんか?」と言い出した。

私は「是非ともよろしくお願いします。」と答えたと思う。

その日から私と彼女の冒険が始まった。

 私は毎日、自転車で編集者のいるブックカフェに通った。編集者と頭を突き合わせて、ブログをひとつの作品にするためだ。彼女は私の文章に容赦なく、ダメ出しをした。ゲラはみるみるうちに、真っ赤になっていく。

第1稿、第2稿とこれでもかというぐらい文章をともに研いでいった。ときには深夜3時ぐらいまで作業していたこともあった。そんなとき、私は近くの銭湯に行き、編集者の家に泊まらせてもらった。

 こんな日々が1ヶ月ほど続いただろうか。

 ここまで出来た理由は彼女の情熱だったと思う。彼女のまた私と同様、文章という形でヘイトスピーチに対抗できる方法はないのか模索していたのだろう。在日と長い付き合いがあった彼女は私以上に在日のことをよく知っていたし、文章のことも私に教えてくれた。だが、不思議と私に対して威圧感はない。下手をすれば親子ぐらい年齢が違うのにもかかわらず、どこぞの馬の骨だか分からない私を対等な立場として作品を作るパートナーとして完成までともに走り続けた。

 今でも彼女には私のブログを厳しく批評してもらう。それが何よりも嬉しい。あのとき、2人で本を作った日々はまだまだ続いているし、また彼女と一緒に本を作りたいと思っているからだ。

 そんなときのことを思い出しながら、私は新潮45のあの記事を読んでいた。

本を作っている人間であれば、あの記事を読んで思わないことはないはずだ。

 私たちはなんのために本を作っているのだろう。

それは読者というまだ会ったことのない私の友人たちとともにさまざまなことを分かち合うためだ。

 「手に取っているアイツには金がないかもしれない。」

と思って、粋がった25歳の兄ちゃんの文章をいくらで買ってくれるのかということにビビりながら、値段の相談をした。

  「会ったことのないアイツが少しでも読みやすいように。」

と祈って、読みやすいフォントにしてもらった。

「本はアイツの一生を左右するかもしれない。」

と考えて、編集者とゲラに向かい、文章を研ぎ澄ましていた。

これが書く人間のプライドだ。

こんなへっぽこで生意気な新人ライターでも分かってる。

 そんな私の本だが恥ずかしいことに売れているとは言い難い。正直、生活だって苦しい。「理念だけじゃ、メシは食えない。」という現実を噛み締めながら、それでも業界の片隅で生きている。「こうした生き方も長くはないかもしれない」と、ときに思いながら、それでも本を作ることが大好きだ。

 きっとそれは私自身が本によって、助けられた読者であるからだろう。悩んだときには本を開いたし、言葉が見つからないときには本で言葉を探した。そういう気持ちで読んだ坂口安吾の『堕落論』も、中上健次の『日輪の翼』も、フォークナーの『サンクチュアリ』もすべて新潮社から出された本だった。

 新潮社という大手の出版社のなかにも「本作りの職人」としてプライドを持った人たちが何人も居るだろう。私は抗議のためのデモへ出ることはない。「文でやられたら文で返す。」のが信条だし、私よりもキャリアを積み重ねている本作りの先輩たちが持つ矜持を信じたい。

だからこうして書いている。

 親愛なる新潮社の本作りの先輩たちへ

本を作っているとき、Yondaのトートバッグにゲラを入れていました。
図書館で本を借りるとき、可愛いパンダのトートバッグに本を入れています。

これから本を買うとき、古くなった新潮社のトートバッグを使うでしょう。

 あのパンダをこれ以上、泣かせないでください。

そういう「日本人らしさ」はもういらない

    今年のサッカーワールドカップ日本代表は「訳の分からない」チームだった。

「訳の分からない」ままハリルホジッチが解任され、西野が新監督になり、

「訳の分からない」ままワールドカップでベスト16に残り、

「訳の分からない」まま森保が代表監督として、先日、初采配を振った。

   ワールドカップでの反省はこれといってなく、ただ、なんとなーく「ベスト16でよかった!感動をありがとう!」という空気だけがあった。

   こんな日本代表がベスト16まで行ったのは同じグループのチームにとって「訳が分からなかった。」からだろう。直前で監督を変えて、プレーモデルがあるのかないのかハッキリしないサッカーを展開したおかげで、真面目に対策をしてきた相手チームのコーチたちは「訳が分からない」渦に巻き込まれた。

 そんな「訳の分からない」チームをテレビでは「日本人らしいサッカー」として称賛した。確かにあれは日本人らしい。作戦があるのかないのか「曖昧」で、何をやりたかったのか分からない。

 唯一、曖昧じゃなかったのはベスト16になりたいからポーランド戦で途中無気力プレーになったことぐらいか。

  日本人にとってどうやら「曖昧さ」は美徳なようで、日本の文化や日本語の特徴として「曖昧さ」が強調される。

 どうやらその影響は政治の世界にも及ぼしているらしい。大学時代、日本政治を学ぶ講座で講師は「55年体制の日本政治の特徴は曖昧なところにある。」と語っていた。

 そんな政治のあり方を改革するためなのか、今の政治家たちは「日本人」であることをこの国に住む人たちに求めながら、「曖昧さ」からは程遠い、断言口調で政治を語る。

 そんな新しい政治家が何を考えたのかTwitterで「ノーベル賞、オリンピック等で快挙を成し遂げた日本国民には、二重国籍の特例を認めたらどうかな。」と言い出した。これもまた「日本人らしい」と苦笑しながら私はとある「在日あるある」を思い出していた。

 いろいろな在日から話を聞いていると、1度は日本への帰化を考えたことのある人が割と多く存在することに気づく。

 帝国植民地の臣民で、戦後に何の選択肢も与えられず、国籍を奪われた人たちが戦後、ふたたび帰化をするなんて変な話なのだが、日本国籍を取っていれば何かと便利だ。
 だが、それと同じくらいに帰化に「挫折」したという話も聞く。

 ある人が帰化するために膨大な書類を作った。普通は行政書士に頼るが、なかには学んだこともない「祖国」の言葉と格闘したり、韓国語のできる日本人に頼んで書類を用意する。その人はお金があったので行政書士に頼んだらしい。多額のお金と膨大な時間を使って、自分の半生を語りながら行政書士に本当に帰化できるかを訊ねる。

 行政書士はじっくりとその人の話を聞いたあと「○○さんは、帰化が難しいかもしれないですね。昔、やんちゃされていたんで警察に記録されているかもしれないです。」と言った。

 ここで心が折れて、その人は帰化を諦めたという。

しばらくして、若いころ、一緒にやんちゃをしていた仲間の在日が帰化したという噂が出た。

 そのとき「どうして俺以上にやんちゃだったあいつはOKなのに俺がダメなのか?」と思ったらしい。

 帰化のハードルは高いというが帰化できてしまった私にはよく分からない。ただ、そんな経験をした人たちにとって、ものすごいハードルがあると感じるのは当たり前だろう。

 在日の中には帰化した「同胞」を「特権階級」だと言う人やなかには「裏切り者」だと言ってしまう人も居る。かつて、朝鮮籍から日本籍に帰化した山村政明という青年は日本籍であったことを理由に在日から差別を受けて、自ら生命を絶った。

 曖昧な帰化制度と在日が心のよりどころとしていた民族精神がぶつかったときの音はとても不気味だ。

 「それなら、そんな閉鎖的な在日の社会から逃げて日本社会に溶け込めばいいじゃないか」と言う人も居るかもしれない。

ところが現実はそんなに甘くないのだ。

 ハローワークで名前を書いて職員に見せれば、一言目に言われるのは「帰化されていますか?」だ。そんなことを言われなくてもとっくに帰化してるって(苦笑)   

 選挙権や被選挙権はどうか?

 たしかに私のような日本国籍を持っている在日は、ほかの在日とは違って、参政権を持っている。その権利を信じて、選挙活動を手伝おうものなら「なんで帰化した人がそんなことをやってるの?」と言われ、議員になろうとしたら次は選挙期間中に「1966年に北朝鮮から帰化。」と黒シールを貼られるか(朝鮮籍朝鮮民主主義人民共和国国籍ではないことぐらい勉強してほしい)、法律や行政の瑕疵なのに「二重国籍だ。」と言われて、党の役職まで辞任しなければいけなくなる。

 まぁ、後者のほうはバカ真面目に帰化した「証拠」として、見せなくてもいい戸籍謄本を公開し、「公職に就いた帰化者は帰化した証として戸籍を見せなければいけない」という前例になりかねないことをしたわけだからより始末が悪い。

 帰化した在日が特権階級なんて嘘だ。

日本の人たちは旧植民地の子孫だろうが元外国籍の人が日本の政治にタッチすることはお嫌いなようだ。

 あれだけ「曖昧さ」を美徳としているのにこれだけはハッキリしている。

 こんな愚痴を「生粋の日本人」だという友人に漏らすと「そんなことで悩まない方がいいよ。心まで日本人になれば良いじゃないか」と言う。

 出た!

日本人の美徳 The 曖昧!

Simple2000シリーズで見かけた(ような気がする)ゲームをここでやるのか!

「心まで日本人になる」って一体、なんだ?

もう国籍を取ったから日本人じゃないのか?

あれか、「心まで日本人になる」って「『おふくろの味は?』と訊かれたら『肉じゃが!』」って答えることか?

 だいたい、肉じゃがはそこまで好きじゃないし、私にとっておふくろの味と言えば、夏の暑い日に食べるやっすい素麺に、刻んだきゅうりと卵焼きと市販の自称キムチを入れて、そこにてっきとうな量のコチュジャンと砂糖と酢とごま油をまぜまぜした「自称冷麺」のことだ。

   私が帰化したとき、法務局の偉い人にそんなことを言われた記憶はないのだが、「日本人になる」ためにはその「自称冷麺」とおさらばして、「肉じゃが」愛好家にならなくちゃいけないらしい。

 グッバイ!自称冷麺!

こんにちは!肉じゃが!

 ところで肉じゃがって、「ビーフシチューの失敗作」じゃなかった?

どうやらこの話も「曖昧」らしい。

 西野が指揮した代表を「日本人らしい」というのには辟易としながら、納得してしまったのは曖昧でよく分からない日本人の基準を日々の生活で感じているからだ。

 二重国籍を認めることが大切だという人も居る。確かにそうかもしれないが、曖昧な基準で帰化できる人とできない人を選別し、帰化したとしても「心まで日本人になること」を求めている限り、制度論的な話をしても希望は見えない。ましてや、「国籍を与えてやる」という国会議員様にとっては「いいことやってるのになぜ?」と思っていることだろう。

 私が求めたいことはそういう「日本人らしさ」はもういらないということだ。

さようなら、純血日本人。

   私の身の周りにいる在日コリアン1世たちは日本語が上手だった。

   母が祖父を日本人だと勘違いしていたぐらいに祖父は日本語が上手だったし、祖母たちも訛りがきつい日本語ではなくて、とても綺麗な日本語を喋っていた記憶がある。

 小さいころ、教会で訛りのきつい1世の日本語を聞いたことがあった。独特な訛りで、どこかちょっと湿っぽく、関東の人なのに、時折、関西弁のイントネーションで話し、関西の言葉を使う。

 そんな1世に出会ったあと、祖母にはどうして訛りがないのか疑問に思って、聞いたことがある。

すると彼女は「韓国人訛りを残していたら日本人にいじめられちゃうじゃないの。訛りがあるなんて日本で努力していない証拠だわ。」と言った。

 テニスの大坂なおみ選手が全米オープンの女子シングルで優勝した。朝早くの試合だったようだが、多くの人がこの試合を観たらしい。

 ネットニュースでは「日本人初の快挙!」という枕詞とともに伝えられていた。テレビを観ていると大坂選手のコメントに日本語字幕がつけられている。

大坂選手は日本語が十分に話せないらしい。そんな彼女の日本語を聴きながら「少ししか日本語を喋れなくてかわいい」というコメントが目に入った。

 正直、彼女を観ていると私はとても複雑な気持ちになる。

 日本人にとって明らかに「外国人」だと認識できる人が出てくると一気に歓迎モードになるのに、日本人と見た目の変わらないような「外国人」に対しては態度が一気に変わることを知っているからだ。

 以前、私が日本人と韓国人のクォーターであると告白したときに「えー!なんで顔が濃くないの?」と言われたことがあるのだが、「ハーフ」も「在日」も日本人が勝手に決めた枠にハマったときでないと認識されない。

 どうやら日本人にとって「ハーフ」とは日本人が外国人として認識しやすい欧米系や黒人系の人たちと日本人との間の子どもを指すらしい。テレビに出ている「ハーフ」と呼ばれる人たちを観ているとアジア系の人はまだ少ない。

 彼女が在日だったらどんな反応だろうかと想像する。多分、ネットは大炎上して、「もっと日本人らしく日本語を喋れるようにしろ。」「在日で日本人を名乗るのはおかしい。」「どうせ在日特権で優勝した。」と言われると思う。

Yahoo!ニュースに載ってコメント欄が炎上した経験者が言うんだから間違いない(笑)

 彼女がそう言われない理由は大方の人にとって分かりやすい「ハーフ」だからだ。

 実はたまに「ハーフ」を羨ましく感じてしまうことがある。ハーフと聞けば「カッコいい」イメージで語られる。一方、在日と言えば「可哀想」なイメージになる。

スポットライトの当たり方が全く違うのだ。

   以前、ハーフの友人に「ハーフっていいよなぁ。俺らいつまでも日本人になれない可哀想な人たちだもん。」と言ったところ「いつまでも『日本語喋れますか?』と言われるのもキツいよ。」と言われた。

   私もまた誰かが決めた枠を信じきっていたようだ。

「ハーフ」も「在日」にとっても誰かが決めた枠は厄介らしい。

 電車に乗って都内に行くと必ず「目覚めよ!純血日本人!」という落書きを目にしていた。

 その落書きを見ながら「きっと私は純血になれないから日本語で書いているのかもしれない。」と思った。

純血になれないからせめてどこかだけは日本人らしくあろうと思った結果が「日本語」だった。

そのおかげで日本語にはちょっとうるさくなったと思う。

これは祖母の「教育」のおかげかもしれない。

 ある日、いつものように電車に乗って都内に行こうとするとあの落書きが見当たらない。

落書きの上にさらに新しい落書きがされていたのだ。

そのとき、私は心の中でこうつぶやいた。

 「さようなら、純血日本人。」

できればこの言葉と出会わないような社会にしたい。

関東大震災後の虐殺事件で犠牲になった全ての方々とその子孫たちへ

  関東大震災後の虐殺事件で犠牲になったすべての方々に哀悼の意を表します。

関東大震災から95年目の今年も小池百合子都知事は追悼文を出しませんでした。昨年、私は来年こそは必ず出してくれるだろうと思い、自らの言葉で追悼文を書きました。しかし、その期待は見事に崩れ去り、名もなき人のひとりである私がまた書いております。

 あれから1年が経ちましたが、霊前に報告できることは何ひとつございません。
大変申し上げにくいのですが、もしかしたら、去年よりもさらに酷い状況になっているようにも思います。
できればいい報告を思い、それが果たせなかったのは今を生きている私たちがあまりにも情けないということです。
謹んでお詫びいたします。

  何かいいことを報告することもできず、顔を合わせられない立場ではございますが、今の状況を正直にお伝えしたいと思います。

 本日、あの震災後の虐殺事件で犠牲になった方のお墓に参りました。「誰かひとりでも居て欲しい」と思い、馳せ参じましたが、私の見た限り、その場所には私ひとりしかいませんでした。
 その街で震災後の朝鮮人虐殺で犠牲になった方のお墓があることを教えているという話は耳にしません。もしかしたら、街の人たちもその墓が何故、あるのかも分からないでしょう。ましてや、外部の人たちに来てほしいと言っても、それは無理なことなのかもしれません。
 暗澹たる気持ちになる中、ふと墓前に供えられた花立に目をやると連日の猛暑でほん少ししおれながらも美しく凛と咲いている仏花が供えられていました。

「まだ忘れられてはいない。このことを書かなくてはいけない。」

そんなことを仏花が私に語りかけたと思います。
 今、私たちの街には朝鮮人や中国人、台湾人以外にも多くの外国人が住むようになりました。特に隣街で昔から朝鮮人たちが多く住んでいた川口にはトルコからやってきたクルド人たちが居て、美味しいお菓子を地元の人たちに振舞っています。少しお腹が減れば、新しくやってきた中国人たちの開いた中国料理屋に行き、花椒の利いた麻辣湯を美味しそうに食べます。
 そして、祝い事があれば、エプロンをしたおかあさんと職人気質の店主がやっている懐かしい匂いのする焼肉屋に行きます。
私たちはそうやって生きているのです。

 今、「オールドカマー」と呼ばれる在日たちも日本人たちもこうした人たちとともにどう生きていくのかという課題があります。
 ともに生きていくとは難しいことです。言葉も通じなければ、風習も違う人たちと向き合う中でトラブルもあります。ですが、私たちが守るべきものはそこで生きている人たちが美味しいものを楽しむ日常です。あのときと同じことを繰り返さないという教訓はこうして生きています。

 人の死は2度あると言われています。
1度目の死は「肉体としての死」、2度目の死は「忘却としての死」です。
肉体として消滅することが本当の死ではなくて、その人の存在が忘れられることこそが本当の死であることを意味します。私たちはあの震災で無残に殺された方々の記憶を忘却させて殺すわけにはいきません。
 こうした記憶のある共同体で生きている私たちはこの事実を語り継がなければいけません。
 その記憶を受け継ごうとする人々に人種は関係ありません。誰しもが震災のデマの犠牲になり、差別の被害者になります。

 関東大震災後、朝鮮人以外にも台湾人や中国人も殺され、無関係な訛りのある日本人も殺された記憶も私は引き継いでいます。

 今を生きている子どもたちに未来は明るいと教えるためには過去を見つめる大切さを教えることが大切です。きっと過去を伝える語りの中に亡くなられた方の魂が永遠に生き続けるでしょう。そして、その語りは未来を作ります。

 来年はよりいい報告ができるようにしたいです。
その報告ができるように私はその記憶を受け継いだ人間として語り続けることを止めません。

あの忌まわしい記憶を引き継いだ子孫として。

人にやさしく

 先日、上野駅前のマルイでとある人と待ち合わせをしていたところ、隣で笑いながらゆで卵を剥いているアメリカ人観光客らしき人たちを見かけた。ゆで卵を笑いながら剥いている理由は分からないが、「この人たちなんだろう。近寄らないでほしい。」と思って、私は存在感を小さくしていた。

 ささやかな願いは空しく、ゆで卵を剥いているアメリカ人観光客が英語で「東京国立博物館はどこですか?」と話しかけてきた。

 普段、外国人に道を尋ねられたら案内をする方だと思う。しかし、笑いながらゆで卵を剥く人たちにどうやって案内をすればいいのか分からない。ちょっと悩んだがいつものように道案内をすることにした。

 道中、どう話しかければいいのか分からず、ずっと悩んでいた。相手は笑いながらゆで卵を剥いているような人たちだ。とりあえず「Do you know Bando Eiji?」って聞けばいいのか?多分、甲子園に興味を持っている外国人はほんの僅かだと思う。今、書いていて気づいたのだが、彼はキン肉マンのファンだったのか。そうすれば、「ゆでたまご」を笑いながら剥く理由は分かる。だとしたら、なぜ、東京国立博物館なのか。私の知る限り、東京国立博物館キン消しはない。頭の中で色々と考えている内に、道案内のミッションを終えていた。こうやって外国人観光客の道案内をしたことはかなりあるのだが、ここまでする理由は留学時代の体験があるからだ。

 釜山に留学していたとき、休みになると必ず大学の外に飛び出して、韓国の様々な史跡を巡る旅をしていた。

 韓国の古都として知られている慶州へ旅をしたとき、私は旅の締めくくりに「五陵」と呼ばれる遺跡に行った。私がちょうど、その場所に着いたのは17時30分だった。韓国の公共施設は18時00分に閉まるので早めに観ようと思ったのだが、思いのほか観るものがたくさんあって、気づいたときには時計の針が18時15分を指していた。

 「空けてくれているよな」と思って、出口の門に近づいたところ、門が閉まっている。だが、私は不安にならなかった。理由は簡単で、遺跡にあるような古い門は内側から閉めることを知っていたからだ。見た限り、内側から閉めていなかったので、きっと開いているだろうと思い、門を開けようとしたが開かない。外側から門が閉められていたのだ。

 人間、絶望的な状況になると、体育座りをする。

そこで思い浮かんだ選択肢は

① 塀を乗り越えて脱出する

② 古墳で一泊する

③ 助けを呼んで出してもらう

の3つだ。
 ①をやろうとしたのだが、監視カメラがある。もし、監視カメラに撮られたら確実に強制送還だ。②も考えたが、これももし、この遺跡の管理局の人に泥棒と勘違いされたら強制送還だなと思って、私は助けを呼ぶことにした。

 門を思いっきり叩きながら日本語で「助けてー。」と叫んだ。人は窮地に追いやられるととっさに出てくるのは自分の普段遣いの母語だ。大学で韓国語を教えてくれる語学堂では「外に行ったら韓国語を話しましょう。」なんて言っているけど、そんなことをいちいち守っていられない。
 叫び続けていると、外から韓国語で「どうした?」というおじさんの声が聞こえてきた。私は日本語で「閉じ込められたんですー。」と情けない声で話すと「分かった。ちょっと待ってろ。」と言って、助けを呼んでもらった。

 「なんとかなった」と思って、遺跡の管理事務所の人を待っていたのだが、遠くからサイレンの音がする。「あれっ?どっかで火事でもあったのかな?」と思っていたところ、サイレンの音が近づいてきて、「ああ、これは自分のために来たのか。」と気づいたときにははしご車で助けられていた。

 はしご車を呼んでくれたおじさんはどうやら地元の人だったらしく、家族で夕方の散歩をしに来ていたそうだ。私は「ありがとうございます」って韓国語で言っておいた。

 そのときから日本に来たどんな外国人観光客にも優しくなったと思う。

 最近、電車で見かける外国語表記に意見を言う人たちが居るらしい。外国人観光客にとって、いざとなったときに飛び出してくる言葉は自分が普段喋っている母語だけだ。パニックになって外国語で喋れる人なんて滅多に居ない。
日本は観光立国を目指しているらしいけれど、こうした思いやりがおもてなしなんかよりも大切だと思う。