関東大震災後の虐殺事件で犠牲になった全ての方々とその子孫たちへ

  関東大震災後の虐殺事件で犠牲になったすべての方々に哀悼の意を表します。

関東大震災から95年目の今年も小池百合子都知事は追悼文を出しませんでした。昨年、私は来年こそは必ず出してくれるだろうと思い、自らの言葉で追悼文を書きました。しかし、その期待は見事に崩れ去り、名もなき人のひとりである私がまた書いております。

 あれから1年が経ちましたが、霊前に報告できることは何ひとつございません。
大変申し上げにくいのですが、もしかしたら、去年よりもさらに酷い状況になっているようにも思います。
できればいい報告を思い、それが果たせなかったのは今を生きている私たちがあまりにも情けないということです。
謹んでお詫びいたします。

  何かいいことを報告することもできず、顔を合わせられない立場ではございますが、今の状況を正直にお伝えしたいと思います。

 本日、あの震災後の虐殺事件で犠牲になった方のお墓に参りました。「誰かひとりでも居て欲しい」と思い、馳せ参じましたが、私の見た限り、その場所には私ひとりしかいませんでした。
 その街で震災後の朝鮮人虐殺で犠牲になった方のお墓があることを教えているという話は耳にしません。もしかしたら、街の人たちもその墓が何故、あるのかも分からないでしょう。ましてや、外部の人たちに来てほしいと言っても、それは無理なことなのかもしれません。
 暗澹たる気持ちになる中、ふと墓前に供えられた花立に目をやると連日の猛暑でほん少ししおれながらも美しく凛と咲いている仏花が供えられていました。

「まだ忘れられてはいない。このことを書かなくてはいけない。」

そんなことを仏花が私に語りかけたと思います。
 今、私たちの街には朝鮮人や中国人、台湾人以外にも多くの外国人が住むようになりました。特に隣街で昔から朝鮮人たちが多く住んでいた川口にはトルコからやってきたクルド人たちが居て、美味しいお菓子を地元の人たちに振舞っています。少しお腹が減れば、新しくやってきた中国人たちの開いた中国料理屋に行き、花椒の利いた麻辣湯を美味しそうに食べます。
 そして、祝い事があれば、エプロンをしたおかあさんと職人気質の店主がやっている懐かしい匂いのする焼肉屋に行きます。
私たちはそうやって生きているのです。

 今、「オールドカマー」と呼ばれる在日たちも日本人たちもこうした人たちとともにどう生きていくのかという課題があります。
 ともに生きていくとは難しいことです。言葉も通じなければ、風習も違う人たちと向き合う中でトラブルもあります。ですが、私たちが守るべきものはそこで生きている人たちが美味しいものを楽しむ日常です。あのときと同じことを繰り返さないという教訓はこうして生きています。

 人の死は2度あると言われています。
1度目の死は「肉体としての死」、2度目の死は「忘却としての死」です。
肉体として消滅することが本当の死ではなくて、その人の存在が忘れられることこそが本当の死であることを意味します。私たちはあの震災で無残に殺された方々の記憶を忘却させて殺すわけにはいきません。
 こうした記憶のある共同体で生きている私たちはこの事実を語り継がなければいけません。
 その記憶を受け継ごうとする人々に人種は関係ありません。誰しもが震災のデマの犠牲になり、差別の被害者になります。

 関東大震災後、朝鮮人以外にも台湾人や中国人も殺され、無関係な訛りのある日本人も殺された記憶も私は引き継いでいます。

 今を生きている子どもたちに未来は明るいと教えるためには過去を見つめる大切さを教えることが大切です。きっと過去を伝える語りの中に亡くなられた方の魂が永遠に生き続けるでしょう。そして、その語りは未来を作ります。

 来年はよりいい報告ができるようにしたいです。
その報告ができるように私はその記憶を受け継いだ人間として語り続けることを止めません。

あの忌まわしい記憶を引き継いだ子孫として。

人にやさしく

 先日、上野駅前のマルイでとある人と待ち合わせをしていたところ、隣で笑いながらゆで卵を剥いているアメリカ人観光客らしき人たちを見かけた。ゆで卵を笑いながら剥いている理由は分からないが、「この人たちなんだろう。近寄らないでほしい。」と思って、私は存在感を小さくしていた。

 ささやかな願いは空しく、ゆで卵を剥いているアメリカ人観光客が英語で「東京国立博物館はどこですか?」と話しかけてきた。

 普段、外国人に道を尋ねられたら案内をする方だと思う。しかし、笑いながらゆで卵を剥く人たちにどうやって案内をすればいいのか分からない。ちょっと悩んだがいつものように道案内をすることにした。

 道中、どう話しかければいいのか分からず、ずっと悩んでいた。相手は笑いながらゆで卵を剥いているような人たちだ。とりあえず「Do you know Bando Eiji?」って聞けばいいのか?多分、甲子園に興味を持っている外国人はほんの僅かだと思う。今、書いていて気づいたのだが、彼はキン肉マンのファンだったのか。そうすれば、「ゆでたまご」を笑いながら剥く理由は分かる。だとしたら、なぜ、東京国立博物館なのか。私の知る限り、東京国立博物館キン消しはない。頭の中で色々と考えている内に、道案内のミッションを終えていた。こうやって外国人観光客の道案内をしたことはかなりあるのだが、ここまでする理由は留学時代の体験があるからだ。

 釜山に留学していたとき、休みになると必ず大学の外に飛び出して、韓国の様々な史跡を巡る旅をしていた。

 韓国の古都として知られている慶州へ旅をしたとき、私は旅の締めくくりに「五陵」と呼ばれる遺跡に行った。私がちょうど、その場所に着いたのは17時30分だった。韓国の公共施設は18時00分に閉まるので早めに観ようと思ったのだが、思いのほか観るものがたくさんあって、気づいたときには時計の針が18時15分を指していた。

 「空けてくれているよな」と思って、出口の門に近づいたところ、門が閉まっている。だが、私は不安にならなかった。理由は簡単で、遺跡にあるような古い門は内側から閉めることを知っていたからだ。見た限り、内側から閉めていなかったので、きっと開いているだろうと思い、門を開けようとしたが開かない。外側から門が閉められていたのだ。

 人間、絶望的な状況になると、体育座りをする。

そこで思い浮かんだ選択肢は

① 塀を乗り越えて脱出する

② 古墳で一泊する

③ 助けを呼んで出してもらう

の3つだ。
 ①をやろうとしたのだが、監視カメラがある。もし、監視カメラに撮られたら確実に強制送還だ。②も考えたが、これももし、この遺跡の管理局の人に泥棒と勘違いされたら強制送還だなと思って、私は助けを呼ぶことにした。

 門を思いっきり叩きながら日本語で「助けてー。」と叫んだ。人は窮地に追いやられるととっさに出てくるのは自分の普段遣いの母語だ。大学で韓国語を教えてくれる語学堂では「外に行ったら韓国語を話しましょう。」なんて言っているけど、そんなことをいちいち守っていられない。
 叫び続けていると、外から韓国語で「どうした?」というおじさんの声が聞こえてきた。私は日本語で「閉じ込められたんですー。」と情けない声で話すと「分かった。ちょっと待ってろ。」と言って、助けを呼んでもらった。

 「なんとかなった」と思って、遺跡の管理事務所の人を待っていたのだが、遠くからサイレンの音がする。「あれっ?どっかで火事でもあったのかな?」と思っていたところ、サイレンの音が近づいてきて、「ああ、これは自分のために来たのか。」と気づいたときにははしご車で助けられていた。

 はしご車を呼んでくれたおじさんはどうやら地元の人だったらしく、家族で夕方の散歩をしに来ていたそうだ。私は「ありがとうございます」って韓国語で言っておいた。

 そのときから日本に来たどんな外国人観光客にも優しくなったと思う。

 最近、電車で見かける外国語表記に意見を言う人たちが居るらしい。外国人観光客にとって、いざとなったときに飛び出してくる言葉は自分が普段喋っている母語だけだ。パニックになって外国語で喋れる人なんて滅多に居ない。
日本は観光立国を目指しているらしいけれど、こうした思いやりがおもてなしなんかよりも大切だと思う。

日本人よりも働かなければいけない

  私の母方の祖父は忠清南道の田舎の生まれだった。周りには山と痩せた田畑しかなかったそうだ。私が韓国留学をしていたとき、祖父の出身地を訪ねたのだが今でも山と田畑しかないような場所で、思わず、祖父がこの土地を出るのも当然だと思ってしまった。

   かつての韓国は長男以外の男子は働き手としてしか見なされなかったため、彼は満足に教育を受けることができず、小作農だった実家の手伝いをしていたという。

 韓国独特の家父長制と貧しい境遇から抜け出したいと思った祖父は故郷を捨てて、戦争が始まる前に単身、日本へ渡った。

 彼は当初、関西地方に居たらしいが、やがて、関東に流れ着いた。そこで警察官と組んで米を安く仕入れ、故郷で憶えた濁酒造りの技術でヤミ酒を作り、様々な人に売った。彼の作ったヤミ酒はその土地で一番、美味しかったと私は聴いている。

 祖父はその金を元手にして様々な商売を始めた。彼の口癖は「日本人よりも働かなければいけない」という言葉だった。その意味するところは「日本人よりも数倍働けばその土地で認められる」ということだ。その口癖通り、彼はその土地に住む日本人たちよりも働き、やがて、その土地で一番の金持ちになった。

 そうやってのし上がった人間は嫌なもので、祖父は儲けられない在日たちを軽蔑し、「あいつらは本当に働かないし、平気で金をちょろまかす。」と言って、自身が経営していた会社で在日を雇うことは一切しなかったという。

 そんな祖父のもとにある日、自民党国会議員がやって来た。その目的とは街で一番の金持ちだった彼に政治献金を請うことではなく、帰化してその街の議員として、選挙に立候補させるためだった。当時は政治の世界で金が飛び交うことを当たり前としていたので、祖父の目の前には大金が積まれた。

 だが、彼はこの話を断った。後妻だった祖母は「韓国人としての誇りがあったから」と胸を張って語っていたが、断った本当の理由は祖父が文盲だったからだ。

 彼はのちに病気になり、全財産を失うことになる。現金を出して、帰化することを依頼した国会議員は手を差し伸べず、彼の周りからは次々と人が離れ、いつの間にか後妻だった祖母と母のみが祖父を支えていた。そのとき、彼は初めて、祖母から文字を学んだ。亡くなる直前には自分の名前が書けるまでなっていたという。

 今、世間を騒がしているのは自民党杉田水脈議員のLGBTへの発言だと思う。彼女は『LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり生産性がないのです』と語った。発言はそれだけではない。こうした発言をした杉田議員に対して、自民党内で問題にするのではなく、むしろ、擁護する発言があったことを彼女自身がTwitterで発言した。(このツイートはすでに削除済みである。)
 彼女のような立場にとって、個人の権利よりもいかに日本に貢献しているかということの方が大事なのだろう。

 ちょうど、この話を書こうと思っていたとき、次はサッカー選手のエジルがドイツ代表から引退することを発表した。トルコにルーツを持つ彼はドイツサッカー協会の会長を批判し、『彼らにとって僕は勝てばドイツ人、負ければ移民なのだ』とコメントを残した。
 「マイノリティー」とされる存在が常に周りから貢献を求められ、共同体のためになれば「仲間」とされ、そうでなければ仲間外れにされてしまうことはどうやら国境を越えて存在するらしい。
 もしかしたらエジルも祖父も政治の世界の中でマイノリティーである杉田議員もその社会で認められるためには「ドイツ人/日本人/自民党の男性議員よりも働かなければいけない」と考えていたのだろうか。

 とりあえず、私にできることは共同体への貢献を高所大所から仰るような人間を名簿に載せるような党には国政選挙だろうが、地方選挙だろうが票を入れないということだ。
 この一票は投票ができない人たちのために投げ込みたい。次はそんな人たちが「生産性がない」とされてしまうかもしれないから。

人柱を立てても災害は治まらない

  本題に入る前に私がこのブログを書く上で信条としていることを書く。まだひよっことは言ってもひとりの物書きとして、同じネタで同じようなことを書くのは嫌だと思うものだ。読者から「それしかネタがないの?」と思われてしまうし、書く側も同じネタだと飽きる。

 これから書く災害に乗じた差別的なデマについては何度もこのブログでテーマにした。これを書くたびに思い出すのは関東大震災のデマで地元の人に無残にも殺されてしまった朝鮮人ことだ。

 実は最近、私が住む街の近所の寺に関東大震災後のデマで虐殺された朝鮮人の墓の存在を知った。初めてそこに行ったとき、墓の前には妙な静寂と緊張があって、「何かを伝えたい」という念のようなものを感じ取った。私が何か書いたとしてもデマはなかなか消えない。こんな現実に押しつぶされそうになりながらも今日も災害とデマの件について書こうと思う。

 関西で記録的な大雨で大きな水害が起きていることをテレビやネットで知る。平成で最悪の犠牲者の数であるという話も聴いた。こうした災害に対しては腰が重いのか政権も動きが遅い。そんな現実を見ていてかなりイラっとしながらもネットでこの水害について情報を得ようとするとまたいつもの災害デマに出くわす。
「こうしたときには外国人窃盗団が強盗をしているそうなのでご注意を。」

「どうやら強盗は地元のナンバー以外の車で各地を回っているらしい。」

 これを読んでいて思うのは年々、デマの質が巧妙化していることだ。私が被災者であれば信じてしまいそうだし、妙なぼかし方がこの話に真実味を与える。3・11のときのデマはもっとくっきりとした輪郭をしていた。しかし、こんな伝え方をされれば信じてしまうのも当たり前かもしれない。かつて関東大震災後に朝鮮人を虐殺した人たちもこんな言葉を信じたのだろうか。

 ずっと言わないようにしようと決めた言葉がある。

それは「昔はよかった。」という言葉だ。昔を美化しても今は何も変わらない。私の中では現実逃避の言葉だと思っていた。

 『在日』というドキュメンタリー映画がある。1997年に公開されたこの映画は光復(解放)50周年を記念して作られ、50年に及ぶ在日の歴史を描いている。『在日』を観たとき、「様々な歴史があってもこれからの若者たちは明るい未来に向かって歩き出す。」ということを監督である呉徳洙氏が伝えたいことだ私は思った。この映画は希望に満ち溢れているし、「在日はやがて居なくなる。これからは韓国系日本人になっていくんだ。」とポジティブに言われたあの時代を表していると思う。

 しかし、現状を見ているとあの映画が想定した明るい未来とは違った。ネットを観ればヘイトに溢れているし、災害のときになると悪質なデマは流れ、災害と差別的なデマの両方に怯えながら生活しなくてはいけない。

 この作品を観たあと、この映画と今のギャップを感じた私は「昔はよかった。」と独り言ちた。
「あんな時代もあったねときっと笑って話せるわ」と中島みゆきは歌っているがまだ笑って話すことはできない。そんな時代が来て欲しいと願いながらも現実はなかなか難しいことをネット世界の言葉の濁流に飲み込まれて思い知った。
 とある地方に行ったとき、昔、大きな水害が起きてどっかから来たよそ者をいけにえにしてそれを治めたという「人柱伝説」を地元の人から聞いたことがある。その話を聞いたときには「そうなんですか。昔はむごいことをしますね。」と思ったがどうやらそれは昔から変わらない。「よそ者」だと見られている人たちを人柱の標的にするかデマの標的にするかの違いだ。今も昔も変わらない事実に気づくが喜ぶことはできない。

 デマを流す人たちにとって「よそ者」は人柱なのだろうか。もうそんなことで災害を治める時代ではないはずのだが。

「平成」という言葉を探して

   私は平成3年に生まれた。生まれたときの日本はすでにバブルが終わっており、混迷の時代が始まっていた。

   私が一番、古く記憶しているニュースは阪神淡路大震災だ。小さい頃からテレビっ子だった私はいつも観ていた教育チャンネル(3番)で眉毛の長いおじいさんが何かを喋っていたのを憶えている。

のちにこのおじいさんが村山富市首相だったことは小学生か中学生のときの社会科の授業で知った。

   そのときからテレビ画面で観る日本はいつも混乱していた。不況や就職難であったことに加え、残酷な殺人事件も起きたし、テロや戦争も起きた。政治の世界はと言うと、大人たち曰く「何かが変わった。」らしい。

   テレビ画面の向こうのできごとを観ながら、いつの間にかこれは私とは別の世界のできごとであり、全く関係のないことだと思うようになっていた。

ようやくディスプレイの向こうが自分のことであると認識したのは大学に入学する年に起きた3・11だ。あのとき、未曾有の大災害の前で普段、偉そうにしている大人たちが慌てふためいているのを見て、私は彼らの地のようなものを見せつけられたように思う。

   そんな平成を観てきた私にとって物凄く印象的な人が2人居る。

それは小泉純一郎元首相と麻原彰晃元死刑囚だ。

   「自民党をぶっ壊す!」

「聖域なき構造改革

そんなキャッチフレーズとともに出てきた小泉元首相は政治のことなんか分からない小学生の私ですら印象的だった。ニュースや政治の番組を観ているとまるでスポーツのようで、世間が小泉純一郎一色だったと思う。多分、私が大学時代、政治学を専攻していたのはこのときの印象が頭の中でこびりついて離れなかったからかもしれない。

  しかし、私が大学受験をするあたりから小泉元首相のやってきた政策の歪みが少しずつ見えるようになった。私は1年間浪人をしているのだがそれは経済的なことが原因だった。そんな事情を抱えていたのは私だけではない。周りを見渡してみるとそうした境遇の同級生が4、5人居ただろうか。彼の言った「改革」が生み出した格差社会を私はこうやって経験した。

   そして、もうひとりは麻原彰晃だ。彼がテレビで取り上げられていたとき、私は幼稚園ぐらいだったがはっきりと記憶している。

初めて彼の顔を見たとき「こいつ、なんだかヤバい。」と幼心に感じた。事実、彼は様々なテロ事件を起こし、本気で日本国を転覆しようとしていたのだ。テレビで観る彼の率いていた教団は奇妙だった。信者はヘッドギアをつけているし、胡座をかいて空を飛ぼうとしている。

「カルト」という言葉を私が知ったのはこの頃だ。クリスチャンである私が教会で牧師の説教を聴くたびにオウムの話が出ていたと思う。教会の外へ出てみると事件の影響からなのか「宗教」を持つ人間に対しての偏見が出来上がっていた。何かの弾みで「クリスチャンです。」みたいなことを言うと「えっ!オウムみたいな怪しい団体じゃないよね?」と言われたこともあった。教会は胡座で空を飛ぶところではないはずなのに(苦笑)

確かにあれだけマスコミに出て、インパクトのあることをし続けたからそう思うのも無理はないかもしれない。

私はテレビで流れていた尊師マーチは忘れられない。今でも歌うことができる。

  この2人を挙げた理由は両人ともにマスコミによって自らを作り上げていたと思うからだ。センセーショナルに報じれば報じるほど彼らは社会の中に深く浸透していった。私はマスコミ批判をしたいわけじゃない。彼らは私たちの欲望を敏感に察知しているだけなのだ。それを考えるとこの2人は私たちの欲望の塊なのかもしれない。

   今朝、麻原彰晃の死刑が執行されたというニュースを観た。テレビにあった「執行予定」という文字はやはり「平成」を象徴していると思った。私たちはまだ消費し続けるらしい。

   今日、このニュースを観ながら平成生まれが平成を語る番が来たと感じた。昭和生まれから昭和天皇崩御のときを聞いたことがあるがどこか他人事だった。それは時代が終わるという感覚を想像できなかったからだ。

だが、今、ひとつの時代の終わりを生きる人間としてこの常軌を逸した「平成」という時代をどう語るべきなのかを試されている。

だが、この雰囲気をどう伝えればいいのかまだ言葉が見つからない。まだこの空気は生きているんだから。

靴を脱いで、お辞儀をして

   最近、寄稿したHAFU TALKや蕨で作っている途中のココシバなど、私の周りではクラウドファウンディングに挑戦する人たちが多い。

   とある人からあるクラウドファウンディングページを教えてもらった。そのページとは『スラム街の暮らしを肌で感じたい』と題されたフィリピンのスラム街に行くためのクラウドファウンディングだ。

   それによると1週間、フィリピンのマニラに住み、そこにあるスラム街に住みながら、映像に撮ることを目的として、お金を集めていた。

   そのページに書いている文章から醸し出されている変なテンションであったり、大学生特有の「意識の高い」言葉(と言ったって、これを書いている私はまだひよっこの26歳。こんなこと言うようになったか。嫌だ。嫌だ。)に苦笑いしながらも、私が経験したことを思い出した。

 今年の4月、鶴橋に行ってきた。鶴橋と言えば西日本の中で一番大きなコリアンタウンとして知られている。以前から大阪出身の在日の人たちに「一度は行ってみた方がいいよ。」と勧められたこともあって、いつかこの街に行きたいと思っていた。

 実際に鶴橋に行ってみると確かに私が小さなころから通っていた東上野よりも大きな街だった。だけれども、私の中で鶴橋への対抗心があったのか「東上野のあの雰囲気の方が好きだ。」なんてこと思いながら街を歩いていた。せっかく、鶴橋まで来たのに、結局、思うことが「どんないいところに行っても我が家が最高。」みたいなことを思っていては旅になっていない(笑)
 街を散策しているとある内臓肉を売っているお店を通りかかった。その店に置かれているお肉の値段を見てびっくり。かなりいい肉が東上野ではありえないような安い値段で置かれてあったのだ。驚いた私は記録用にスマホの写メで撮ろうとしたときに、お店の人にこんなことを言われた。
「お兄ちゃん、撮らないでやー。」

そう言われた私はふと我に返った。

「ああ、そうか!ここは生活の場だった!」
私はすぐにスマホをしまって、「すみませんでした。」とお店の人に言ってその場から立ち去った。
 生活の場に土足で踏み込まれたら不愉快な気持ちになるのは当たり前だ。とあるサイトで東上野を面白半分に紹介するサイトを読んだが、とても不愉快だった記憶がある。だが、自分が旅行者であったり、観察者という立場になってしまうとそんな気持ちがどこかに行ってしまう。
もしかしたら、私の中に同胞だからという甘えがあったのかもしれないが私はその街の住人ではない。敷居を跨ぐとはどういうことなのか、そして、立場が変わってしまったら自分が嫌だと思っていたことをしてしまうことを学んだ。

 私は彼らに旅をするなと言いたいのではない。鶴橋で失敗したからこそ私は生活の空間を改めて考えるきっかけを得た。旅はこうやって人に新しい思考を与えると思う。だが、生活の空間に踏み込むのであれば靴を脱いで、お辞儀をしながら「失礼します。」と一言言ってからにしてほしい。そこに住んでいる人たちは見世物じゃないし、そこに行ったからと言って、すぐに分かる生易しいものじゃないことだって分かると思う。

 そして、私がこの件で一番怖いと思っていることは旅先での失敗ではなくて、大人からの意見に対して、このプロジェクトを考えた学生たちが何も考えず、ただ謝って終わらせることだ。それではどうしてこういう意見がたくさん出たのかを深く考えることがなくなってしまう。大人にとって重要なことは謝らせることではなくて、考えさせる言葉を学生側に対して真摯に伝えることだし、学生にとって重要なことは大人の言葉を真摯に受け取って、何がいけなかったかを考えて自分の言葉で語ることだ。
 インターネットの世界の中だからこそお互いに靴を脱いで、お辞儀をして言葉を交わす姿勢が大切なんだと思う。

終わらない戦争を語ろう

 68回目の6月25日はとても晴れている。あの戦争が起きたときもこんな青空だったのだろうかと思いながら私は朝ご飯を食べて、自転車で図書館に行く準備をしていた。きっとあのときも人々は普通に過ごしていたに違いない。そんな日常が失われてから今日で68回目になる。

 今日は朝鮮戦争の開戦日だ。韓国ではこの戦争を「韓国戦争」もしくは「ユギオ」(「6・25」の韓国語読み)と呼び、北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼ぶ。突然、始まったこの戦争は朝鮮半島全土を戦場にし、様々な人を犠牲にして分断を確定的なものとした。一応、休戦協定締結以来、大規模は戦争は起こっていないものの、準戦時体制は続いている。

 釜山に留学していたとき、私は大学の寄宿舎からバスに乗って買い物に行こうとしていた。ある交差点に差し掛かった時、突然、バスが止まった。何事かと思って、運転手に話を聞いてみたところ「国民訓練だよ。」と言われた。韓国では北朝鮮の侵攻に備え、避難訓練が行われている。そんな出来事と遭遇したとき、私はまだ韓国と北朝鮮が戦争状態であることを実感した。ここ数年、南北が融和ムードになりつつあって、つい先日、文在寅大統領が朝鮮半島での冷戦終結をロシアの下院で宣言したことを知って、何かが変わろうとしていることを感じた。だが、戦争は政治指導者の鶴の一声で終わるものではないことを私は知っている。

 朝鮮戦争が起きたとき、ソウルに住んでいた私の祖母はまだ23歳だった。突然、起きた戦争に驚いたと言っていた。祖母の家族は植民地時代からのクリスチャンホームで牧師や宣教師を多く輩出していて、戦争中にクリスチャン狩りをしている噂があった朝鮮人民軍の手から逃れるためにソウルを脱出し、様々な場所を転々としていた。
 戦争が落ち着いたある日のこと、事件が起きた。一家でソウルに帰還するため、汽車に乗っていたとき、朝鮮人民軍と居合わせてしまった。逃げなければいけないと思った祖母たちはすぐに汽車から飛び降りその場を脱出した。しかし、後ろの車両に乗っていた祖母の姉の夫はそれに気づかず、そのまま捕まってしまった。有名な宣教師だった彼はその日以来、家族のもとに帰ることはなく、そのまま北朝鮮に連行されて殺されたという。戦後、祖母の姉は子どもを抱えて窮乏の中で亡くなった。

 それから何十年も時が経ち、祖母が亡くなる前にこんなことがあった。末期の大腸がんで、鎮痛剤を打っていた彼女は意識が朦朧となりながら介護をしていた私に「どうしよう。パルゲンイ(韓国語で「アカ」の意味)と憲兵が追いかけてくる。」と話していた。私は気丈だった祖母の怯えた顔に驚き、一晩寝ずに隣に居た。その話を母にしたところ、母は「昔からずっとそう。」と言った。祖母は戦争の悪夢にずっとうなされていたのだ。

 戦争が起きているときは明日死ぬかもしれないという恐怖と戦いながらどうやって生きていこうかということしか考えない。きっと朝鮮戦争中に様々なところを転々としていた祖母もそうだったと思う。しかし、戦後になってから戦争の悲惨さを様々な形で体験することになる。その悲惨さがあまりにも酷すぎて口にできない人たちも存在する。

 いくら政治指導者たちが「戦争は終結した。」と言っても、普通に生きている人たちの心の中では戦争が起こり続ける。きっとこうした心の動きは国境や人種を越えるのではないだろうか。日本でもアジア太平洋戦争で祖母と似たような体験をした人たちはたくさん居ただろうし、ベトナム戦争や中東で起きている戦争でもそうだろう。

 「戦争を知らない世代」と私たちは言われるが、きっとそんな私たちも戦争を見ている。それは戦争によってトラウマと生きなければいけない人たちの戦後のもがきという戦争だ。