もし在日コリアンである私がビビンバについて語ったら

   こないだ初めて知ったのだが、李明博大統領の時代に「韓国料理の世界化」政策という韓国料理を世界5大料理の1つに入ることを目指し、さらに韓国料理を高級化することをしていたそうだ。

   祖母が焼肉屋だった立場からはっきり言おう。

韓国料理の世界化なんて必要ない。

釜山に行って、一番美味い店は市場の中の小汚いデジクッパ屋だったし、美味しいティッコギ屋も小汚かった。

ついでに言えば、美味い焼肉屋ほど小汚い。

もちろん、インスタ映えなんかするわけがない。

   李明博政権は韓国料理屋をインスタ映えさせたかったのか?いくらなんでもそんな韓国料理の世界化なんて韓国料理に対しての侮辱だと思うので、それもひっくるめて、検察にはじっくりと取り調べして欲しい。検察がやらないなら私がやりたい。

   ふと、韓国料理の象徴とは何だろうと考えた。韓国料理には庶民的な料理が多い。だが、キングオブ庶民の料理を決めるとしたらそれはビビンバで決まりだ。きっと青島幸男だって、国会でそう決めると思う。

   あるとき、韓国料理屋に入った。メニューを見てみるとビビンバがある。値段に目をやると850円と書いてあるではないか。

おいおい、いつから日本はハイパーインフレになったんだ。

世界史の教科書で見た、ワイマール・ドイツのときに子供たちが札束を積み上げて遊んでいるような状況になったのか。

ビビンバって言ったって、ひょうきん族に出てた方じゃないぞ。(これでクスっとした貴方はきっとテレビっ子。)

   そもそもビビンバというものは、給料日前に野菜が安いときに作り置きしたナムルを3日かけて消費するときに食べたり、チェサの残り物を消費するために食べる。具材はほうれん草のナムルと大根と人参のなますともやしのナムルとぜんまいのナムルとされているが、あくまでも最低限のの具材でしかない。予算次第では具材をたくさん入れることも可能だ。

つまり、ビビンバとはソシャゲなのだ。課金次第で良くなってくる。だが、私たちはそんな軟弱な真似はしない。いかに金をかけないかで勝負する。

私がオススメなのはてきとーなキムチを入れ、さらに生卵かけることだ。

「牛丼に生卵をかけるときの贅沢を忘れることを傲慢と言う」という名言があったと思うが(あるということにして欲しい。)ビビンバに生卵を投入すると一気に金持ち気分が味わえる。まぁ、ビル・ゲイツがビビンバを食べるときはどうせ生卵2つを投入するだろうがそんな無粋なことはしない。生卵は1つで十分なのだ。それ以上やったら生卵がメインになる。

   キムチについてだが、これは別になんでもいい。味は問わない。どうせコチュジャンの味で分からなくなるんだから。

  そして、仕上げに胡麻油を垂らす。これはほんのちょっとでいい。

肴は炙ったイカでいい。(書きたくなった。)

  次は簡単だ。完璧に仕上がったビビンバにコチュジャンをまぶし、米粒が潰れて、餅になるんじゃないかってぐらいに豪快に混ぜる。別に礼儀作法なんてない。

あとは自由に食べればいい。アメリカ映画に出てくる口の周りにチョコレートまみれのデブみたいに口の周りはコチュジャンだらけだ!

   上品とは程遠いビビンバ万歳!

礼儀作法なんて糞食らえ!

これが韓国料理だ!

   最近、様々な人が存在する社会のあり方を流行りの言葉で「ダイバーシティ」や「共生社会」と言っている。

   在日の社会に目をやると色んな人たちと生きてきたことが分かる。在日の部落の隣も差別されていた人たちの部落で、その人たちと差別し合ったり、協力したりして生きてきた。私は『三丁目の夕日』的なノスタルジー溢れる昭和の幻影が好きではない。あんなに綺麗なものではなくて、もっと意地汚かったし、生きるのに必死だった。生きていくためにはときに、暴力も振るった。

ビビンバを混ぜるとき、汚く混ぜると言うが本当にそんな混沌の中で生きてきた。もしかしたら、ビビンバは在日の生き方そのものだったのかもしれない。

   私は幸い、そんな時代を生きてきた人たちと生活してきた。だから、「ダイバーシティ」という言葉や「共生社会」なんていう言葉がとても洒落臭く聞こえてくる。

何故、雑多に生きている当たり前の事実に名前をつけて、主張しなくてはいけなくなったのだろう。

「みんな、仲良く暮らしてます。」で良いじゃないか。

民主主義とは逡巡である

 今日は全国で安倍内閣退陣を求めるデモがあるそうだ。私はやらなければいけないこともあり、ネットの動画でデモの様子を観ることにした。
 どうやら韓国から文書改竄のデモを応援する声も上がっているらしい。かつて軍事政権だった韓国の民主化を日本人が応援していたなんて隔世の感がある。

  韓国では前大統領の不祥事が発覚し、弾劾に追い込み、新大統領を誕生させた。この行動に対して「韓国の人たちは凄い!それに引き換え日本は・・・・・。」という声を見かけた。私は少し複雑な気分になったしまった。
 私の母は1980年代にソウルへ留学したことがある。当時のソウルは今のような華やかなソウルとは違って、軍人が大統領を務めていて、自由で民主的な生活とは程遠い。手紙は検閲されているし、電話が盗聴されていることも当たり前だ。なので人々は政府から監視されない時間を選んで、様々な方法で海外に居る友人や家族たちに韓国の実情を伝えていた。
 そんな夜が当たり前だった韓国の昼は民主化を求める若者たちがデモを起こす時間だ。ソウルの街中を歩いているとデモに巻き込まれてしまい、うっかり催涙ガスを浴びることもあったという。そんな話を笑い話として母からされると私はどういう顔をしていいのか分からない。だけれども、そんな「笑い話」だけではない。
 母が大学構内にたまたま居たとき、目の前で学生が校舎から飛び降りた。どうやら民主化を訴えるために自ら身を投げたらしい。彼女は酒を飲んで、韓国の話をするといつもこの話をして、最後にこんなことを語る。

「あんなに頭の良い学生たちがなんでこんなことをするのか。勉強して議員になればよかったじゃないか。あの民主化運動とは一体何だったのか、まったく分からない。」
 かつての独裁政権と戦って何らかの犠牲にならなかった人を探すのはとても難しい。日本に居るはずの私ですら、親戚や友人を辿っていくと犠牲者がそこに居る。
 よく民主化運動を牽引した386世代(1960年代に生まれて、1980年代に民主化運動をした世代の総称)は「真理が勝つと思っている」と言われているが、それは表だけの話だ。彼らは真理が勝つのではなく、真理によってときに残酷なことが起き、その中で悩んでいる。私の母同様、近しい人が生命を落とすのを散々、見ているのだから。

 そんな生命のやりとりの果てに、1987年にようやく民主化を成し遂げた。だけれども、軍事政権時代に起きたような権力者による事件は起き続けた。ようやく権力者の犯罪を起こした大統領を罷免することができたのは2017年のことだ。ここまで来るのに30年もかかった。その間に韓国では発展もあれば、国が潰れかけたこともあった。だけれども、ずっと逡巡し続けたことは間違いない。
 きっと私が複雑な気分になったのは、民主化運動で亡くなった人たちとこの30年ずっと逡巡し続けた今を生きている人たちが忘れられていると感じたからだろう。国境を越えて、留学生としてたまたま生命のやり取りの現場に居合わせてしまった母がいまだに答えを見つけられず、日本で行っている韓国の報道を観ていると何も語らなくなる。彼女の中ではいまだに民主化運動は終わっていないのかもしれない。
  『光州5・18』という映画がある。光州民主化抗争をテーマにした映画だが、ラストシーンでヒロインがトラックに乗って「この事件があったことを忘れないでください。」と拡声器で叫ぶ。
私は日本のデモが良いとか悪いとかそんな話をしたいんじゃない。ただ、韓国の民主化の中で様々な犠牲があったことや民主化した中で様々な逡巡があったことを忘れて欲しくないだけだ。きっと、今、日本でデモが起きているのもそんな逡巡があるということなんだと思うから。

 あの時代を知っている人たちは死というリアルな感触をろうそくを持っている手で触りながら常に死者とともにグルグル回り続けていた。もし、彼らに「民主主義とはなんだ。」と訊いたらこのように言うだろう。

 民主主義とは逡巡である。

悲劇の先に絆を作る

  先日、とあるところでインタビューを受けた。そのときに聴かれたことは「若い人たちにどういうメッセージがありますか?」というだった。こういう質問のとき、私は「とりあえず本を読んで下さい。」と答えることにしている。
 最近、自信を持って、そのように答えられるような本に出逢った。

その本とは『あるデルスィムの物語―クルド人文学短編集―』だ。この本は1937年に起きたクルド人によるデルスィム反乱をテーマにしている。クルド人は国を持たない中東の民族として知られ、トルコのほかにイラクやシリアにも存在している。

 トルコ共和国を建国する際、クルド人への自治が約束されていたが、その約束は破られてしまい、クルド人たちは反乱を起こす。しかし、その反乱は失敗し、反乱に参加した人たちはトルコに虐殺され、生き残ったクルド人に対しては強烈な同化政策を行った。この状況は今でも変わっておらず、トルコ国外に逃亡するクルド人たちも数多く存在する。
 この作品を読んでいて感じたことは、トルコの中でデルスィムの出来事がいかに語りにくいかということだった。どこか奥歯に挟まったような言い方をしなければこの事件を語ることができない。私はそんな作品に思わず共感してしまった。

 2018年は済州島にルーツのある私にとってとても特別な年だ。1948年に起きた済州島4・3事件が発生して70周年を迎える。今年は済州島に文在寅大統領がやってきて、大きなセレモニーも開かれたそうだ。

 私はこの事件についてあまり聞いていない。父方の祖母の家系は済州島の中でもかなり良い家だったようだが、この事件のついて、祖母は何も語らなかった。彼女が昔話をするとすればたった2つだけだった。

1つは「本当に苦労したんだよ」。

もう1つは「兄弟は全員、戦争で死んじゃった」ということだけ。
 祖母は何も語らず死んでしまった。

 私がこの事件を知ったのは大学の授業でのことだった。その授業を受けながら私が韓国に留学するとき、父が「韓国で何があるのか分からないから気をつけろ。」と言われて飛び立ったことはここにあったのかもしれないと思った。
 悲劇の歴史を受け継いだ子孫たちということを自覚すると、どうしてだか自分の生き方も息苦しくなってくる。警戒しなければいけないことだって増えてくるし、語らなければいけないことだって多くなる。

そんな生活に疲れているとき、私はクルド人の虐殺事件をこの本を通して知った。
 その出来事を知った私が最初に思ったことは「なんだ。友達がここにも居たんじゃん。」ということだった。トルコと韓国はとても遠い国だが、同じような悲劇を経験した人たちが居る。そういう人たちが居ることを知れただけでなんだか嬉しい気持ちになった。それと同時に私が背負っている歴史はもしかしたら在日であることを確認するために語るだけではなくて、他の世界の誰かに「ひとりじゃない」と語れるメッセージになるのではないかとも思った。
 真っ暗闇な中に居るとそんなメッセージが何よりも嬉しい。
夜にお月様に出逢ったようなあの感覚だ。

 本を読むと自分とは違うところに居るはずなのに、同じ気持ちを分かちあえる人に出逢える。

 自分たちが背負っている悲劇の歴史を知ったとき、その悲劇に落ち込んでしまう。でも、背負っている歴史は違う世界に生きている友達に会うために存在していると思う。
 きっと文学とは語ることすらできない悲劇を数珠のようにつなげて、違う世界の友達を探すためにあるのかもしれない。

私は悲劇の先に絆を作ることができると信じている。

そうしてできた絆を「希望」と呼びたい。

私はともに生きていきたい

 実はしばらくSNSから離れていた。悪いニュースしか流れてこないし、頭の中が爆発しそうになったから精神的な休養が欲しくなったのだ。言葉が濁流のように流れているSNSの世界から離れ、好きな本を読んだり、音楽を聴いたりしながら小川のせせらぎのような言葉の世界を楽しんでいた。
 だが、SNSはどうしても私を離してくれない。何かの連絡をするときにはSNSを使ってしまう。ついでに何かを書いてしまう。そこでたまたまある記事が目に飛び込んできた。それは琉球新報の塚崎昇平記者の記事だった。琉球新報では毎週日曜日に記者のコラムを発表しているらしく、そこには塚崎記者自身がかつて「ネトウヨ」だったこと、そして、辺野古や高江の現場を訪ね、そこから戦後史を学び、琉球新報の記者になったことが書いてあった。
 「いじめをカミングアウトする。」

これを読んでどのように感じるだろうか。普通、「いじめをカミングアウトする。」と言われると「いじめられたことをカミングアウトする。」と感じるかもしれない。事実、自分がいじめられたことを告白する有名人は多い。だけれども、自分が誰かをいじめた経験をカミングアウトすることはあるだろうか。私が知らないだけかもしれないがそういった話は余り聞かない。

その昔、サッカーの前園真聖選手が「いじめ、カッコ悪い。」というCMに出ていた。いじめることはカッコ悪いし、そのカッコ悪さはいじめる側もどこかで分かっているのだと思う。だからこそ、誰かをいじめた経験を話さない。

 この記事が出てから色々な反応があったようだ。その告白に感動するコメントもあったし、対話の意味を見出す人も居た。その一方、こうした告白を許せないと素直に言葉にする人たちも居た。どちらの気持ちもよく分かる。私みたいに何らかの形で実名が出ている在日の当事者たちはびっくりするぐらいのヘイト発言に襲われる。かつて、私がBuzzfeedで取材を受けた記事がYahoo!ニュースに出たとき、6000件ぐらいのコメントがあって、そのほとんどがヘイトコメントだった。

 彼に対して「許せない」と言うのも当たり前の話だ。でも、そうした人たちと生きていかなければいけない現実もある。差別されている側のジレンマとでも言えば良いだろうか。そんなとき、私はある映画を思い出した。

 私はクストリッツァの『アンダーグラウンド』という映画が好きだ。ユーゴスラビアの歴史を描いた映画で、最後、主人公のクロは友人で自分を裏切ったマルコに「許そう。でも、忘れない。」と言う。

 彼のことを許せない人たちが多いかもしれない。でも、私は彼と一緒に生きていきたいと思った。差別する側であったとしても、こうやってともに生きていくことができる。もし、彼に求めるとすれば、今後このようなことが起きないようにともに協力してほしいと願うことだろうか。未来を作る責任を私はともに分かち合っていきたい。
 あの記事を読みながらあらゆる人たちの顔が浮かんだ。そのどれもが本当の表情だと思う。良いかどうかは私には言えない。だけれども、私は「ネトウヨだった」と自認する人と未来を作っていきたい。

 実名で書くことは怖かったと思う。こうした記事が叩かれることは当たり前だし、そうしたことを覚悟して書くことは容易ではない。私にだって経験がある。

だから、この記事を匿名で書きたくない。

ちゃんと名前をお互いに出して、お互いに語っていくことが大切だ。そうした出会いがまた何かを変えると思う。

私の名前は金村詩恩です。

「美しい国」へ

 私が通っている図書館の下の階には最新のニュースを伝える電光掲示板のついた自販機がある。今日、その前を通りかかったところ、老人2人が自販機の前でこんな会話をしていた。

 

 「書類を書き換えちゃうのはいくら何でもマズいよね。」

 「うん。まさかこんなことをするなんてね。」

 

 今、森友学園との土地取引に関する財務省の決裁文書が改竄されていたと問題になっている。これらは財務省理財局の指示で行われていたとされているが、森友学園と安倍政権との蜜月関係から財務省の意思のみで行ったとは考えにくい。

 今回、書き換えを行った箇所は政権中枢や与党に近い政治家たちの名前など数十か所に及んだ。この中で極めつけは昭恵夫人から「いい土地ですから前に進めてください」というお言葉をいただいたとの学園側の発言が削除されていたことだ。一体、誰がそんな指示を出したのかは容易に想像がつく。
この国はこんな国だったのかのだろうか。

 私の家には教会の関係で韓国本土の人たちがよく遊びに来ていた。彼らはよく「日本は民主的で良い国ですね。それに引き換え韓国は・・・・・。」なんて言っていた。その言葉の意味が分からなかったが、韓国の現代史を勉強していくうちに政権に近い人たちだけが利益を得ることが韓国では日常茶飯事だったことを知った。もしかしたら、私の両親がいち早く日本に帰化する手続きを取ったのはこんな話を聴いていたからかもしれない。今では全く立場が逆転してしまったがそんな時代があったのだ。

 私が帰化してからしばらくして、日本では「改革」という言葉が流行り始めた。

 

「日本は海外と同じように規制緩和をし、無駄を無くさなければいけない。」

「日本では官僚が政治家以上に力を持っているので、改革してその関係を改めなくてはいけない。」

 

そんな言葉を国民は支持し、政治家たちも競って、「改革」を語り、それを実行していった。そんな中で安倍首相が現れた。拉致問題における姿勢で脚光を浴びた彼は熱狂的な支持の下で「改革」を推し進めた政権で重要ポストを担い、首相にまで上り詰めた。彼が第一次政権を率いる前、『美しい国へ』という本を出版した。実は私も持っていたのだが、内容は如何に日本の歴史や伝統は素晴らしくそれを引き継がなければいけないかと語っているものだった。

 安倍首相が「伝統」を重んじていることが良く分かる。かつて栄光ある大日本帝国では政府要人に近い政商たちに格安で国有地を売っていたし、アメリカとの戦争のときには「敗北」を「転進」と言い換えて、何も知らない国民に伝えていた。彼のやっていることもまさに同じことだ。思想的に近い「友人」に格安で国有地を売りさばき、内閣官房長官には国民向けに「改竄」したことを「書き換えた」と言い換えた。

 彼の言っていた「美しい国」とはこういうことだったのだ。

私は安倍首相にこんなエールを送りたい。

「日本の伝統を引き継いだ安倍首相頑張れ!

安倍首相頑張れ!

自分か自分の妻がこの事件に関与していたら国会議員も辞めるという国会答弁良かったです!」

きっと昭恵夫人も「いいね!」をしてくれるだろう。

 安倍首相があれだけ言っていた明治150年に日本の憲政が崩壊していることが分かるなんて夢にも思わなかった。どこかのRPGゲームよりももしかしたら現実の方がゲームらしいかもしれない。この手のゲームをしているといつも「ここだ!」というところでセーブすることができない。私の友人の中に強引な方法でセーブデータを書き換える奴が居たが、そういう手を使う奴のセーブデータは壊れてしまう。

 ゲームの中ですら強引な「書き換え」は許されないのだ。  

人はそれを「歴史」と呼ぶんだぜ

 私はちょうど「ゆとり世代」と呼ばれる世代だ。小学5年生のときに、当時の担任が「今年からゆとり教育が実施されます。」とか言っていた。テレビを観ていると「ゆとり教育で教科書が薄くなりました。」とか「円周率が3.14ではなく、3として教えることになりました。」とかそんなことばかり言われていた憶えがある。

そのおかげか、先の世代の人たちからはまともな教育を受けていない礼儀知らずな奴らということで「ゆとり世代」なんていうレッテルを貼られてしまった。こんな教育にしたのは誰なんだ?という責任論はどこかへいったままだ。

 そんなTHEゆとり世代の私も社会人になった。そうなると教科書からは縁遠くなる。さらに私が大学生だったころに「脱ゆとり教育」と言って、教育指導要領も変えられた。さぞ、良い教育を受けているのだろうと思っていたが、あるツイートを見て、その意見が変わった。

 どうやら横浜市で採用されている公民の教科書にはこんなことが書いてあるようだ。

『人は1つの国家にきっちりと帰属していないと「人間」にもならないし、他国を理解することもできないんです。』

 なんじゃこりゃ!さすがにゆとり教育でもこんなことは教わらなかったぞ!なんて思いながら、私はまた小学生の頃を思い返してみた。

 小学生だった頃、私は『人間の歴史』という学習漫画にハマっていた。タイトルの通り、人類の歴史を学習漫画にしたもので、特に私が好きになったのは、人間が様々な場所に散らばっていく進化の過程だった。太古の人類がそんな旅をしていることにロマンを感じていた。

 これはある人から聞いた話だが、どうやら人間は旅をしながら脳を発達させていったらしい。また、人間の歴史という尺で見ると定住している歴史よりも、移動している歴史の方が長いそうだ。

 私は済州島出身者の孫にあたるのだが、親類からこんな話を教えてもらったことがある。実は父方の祖父の家系は元々、済州島出身ではなくて、祖父から8代前の先祖が忠清南道からやってきたらしい。また、済州島には高麗時代にモンゴルから人がやってきて、その子孫たちも住んでいるという。つまり、あの小さな島は「移民」でできている。もちろん、島から出て行く人もたくさん居る。

   「移民」で作られた島の歴史からしたら私は当たり前な存在なのだ。

 それを考えてみると人間の歴史とは誰かが移動した跡を辿る作業なのかもしれない。その跡は決して、国境線のように真っ直ぐな線ではなくて、ギザギザだったり、途中で跡が消えていたりすることもある。そんな跡こそまさに人間らしい。私は国境線という直線よりもそんな線を愛でていたいのだ。

 実はあまり好きになれない言葉がある。それは「移民」という言葉だ。なぜなら、「移民」している方が当たり前なのだから。そして、この私もまたどこかへ旅をして、何かしらの跡をつける。それが生きた証になると思う。

 もし、この教科書の言葉を真に受けた子どもが「人は1つの国家に帰属するのが当たり前だ。」と言ってきたらどうしよう。多分、私は「それが本当だったら、私たちはアフリカに居るんじゃないの?」と言うだろう。ただ、2つだけ誓っていることがある。それはそんなことを言った子どもに「○○世代だから」なんて言わないこととそういう教育を受けさせたのは自分たちであることを自覚すること。自分が言われて嫌だったことをしないのが人としてのマナーだということを「ゆとり世代」だからこそ知っている。

こんな形の「和解」なんて

 3日前の朝は嫌なニュースで目が覚めた。朝鮮総連の本部が銃撃されたそうだ。

犯人のうちの1人はヘイトデモに常連で参加していた男だった。
 実はその数日前に民団本部前でヘイトデモがあった。
この1週間に在日と関係の深い場所が襲われたことはショックだった。
 在日の社会には民団と総連という大きな2つのグループが存在する。
ざっくり言ってしまうと、民団は在日韓国人側のグループで、総連は在日朝鮮人側のグループだ。もちろん、この2つのグループとは縁遠い在日や私みたいにどっちかのグループから抜けてしまったような在日も居るが、基本的にこの2つのグループに分かれていると思って欲しい。
 民団の方は韓国を支持していたし、総連の方は北朝鮮を支持していた。本国が対立を深めていくようにこの2つのグループは70年近くずっと対立していた。
それは普通の在日の生活にも現れてくる。その昔、チャンジャ1つを買いに行くにしても、こっちが民団系のお店だからこっちのお店に行くとか、あっちが総連系のお店だからあっちのお店に行くとか、そんな光景があった。

 さらにこの2つのグループは自分たちの呼び名をめぐっても対立している。
これもまた昔のこと、在日が多い地域のとある公立学校で教師が「在日朝鮮人の皆さん」と授業中に話した。すると、これを聞いた韓国籍の親が抗議して、教師たちは「在日韓国人の皆さん」と言うことにしたが、次は朝鮮籍の親がこれを聞いて、抗議した。結局、今よく使われている「在日韓国・朝鮮人」に落ち着いたそうだ。

 私の家は韓国籍の家だった。遠い親戚たちが朝鮮籍だそうだが、私の周りには朝鮮籍が居なかった。今では日本籍になっているが、実は朝鮮籍の人に会ったことがなかったのだ。私が初めて朝鮮籍の人に会ったのは、共通の友人を介して出会った朝鮮大学校に通っている女の子。彼女と話をしていると同じ在日なのに全く考え方が違うことに驚いた。(元)韓国籍だった私は「韓国」と言うが、彼女は「南朝鮮」と言っていたし、私が「北朝鮮」と言うと、彼女は「共和国」と言っていた。なんだか彼女からその言葉を聞くたびに違和感を感じている私が居た。
 そして、もっと違和感を感じたのは日本籍だけれども在日コリアンだという私に対して、なんだかよそよそしい感じがしたことだった。上手くは言えないけれども、彼女の中の「同胞」だとは認めてくれていないような壁があったように感じた。

 じゃあ、私はと言えば、純粋培養の韓国籍として育ったので、朝鮮籍の人たちに対しては壁を作っているところがある。どっかで「ああ、思想が違うからね。」とか「総連の人たちだからね。」とかそんなことを思っているのだ。

 今から考えてみれば、彼女にとって私は日本に帰化した「日本人」でしかなかったのかもしれないし、私の「ああ、思想が違うからね。」みたいなところが出ていたのかもしれない。

お互いに違和感を感じたまま友達付き合いをしていたのだろう。

今でもSNSでは繋がっているが、私はどっかで38度線という溝を感じている。

 日本の中にも「分断」の現実はあるのだ。

 総連本部の銃撃事件で最も驚いたことは「気持ちは分かるが」というコメントがあったことだ。民団側に居た人間だし、総連をどう思っているかと聞かれれば、はっきり言って良い印象はないし、むしろ、悪い印象しかないのだけれども、だからと言って、銃撃する気持ちは全く分からない。むしろ、次は私自身なのではないかということしか思えない。たとえ、日本の中の分断の現実があったとしても、こうした脅威の現実は全く変わらない。

 こんな現実の中で民団と総連の「和解」を唱える人たちも出てくるだろう。私もその「和解」には賛成だ。しかし、分断の現実を見てみれば、簡単に「和解」することができないことも分かっている。70年も対立し合っていれば、「遺恨」なんていうレベルじゃないものがたくさん積み重なっている。それを少しずつ少しずつ解決していかなければいけない。
 もう、格好つけないで正直言ってしまおう、ヘイトが原因で「和解」なんて言うってなんか嫌だ。
もっと別の形で出会って、もっと別の形で和解することはできなかったのだろうか。