色のある国会に

  明日は衆議院議員総選挙の投票日だ。

メディアは全て総選挙仕様になっている。

 ある朝のこと、私は家事をしながら、テレビを観ていた。

その時やっていたのは、とある選挙区での対決の話。

ある選挙区では、元議員の妻同士が同じ選挙区で立候補し、選挙戦を戦っていて、

また、ある選挙区では、同じ選挙区で立候補した女性議員同士が、選挙戦でもインターネット上でも火花を散らしているという内容だった。

しかも、その選挙区で立候補している女性候補者は夫が不倫で議員辞職をしたという。

選挙期間中も有権者からそのことをいじられ、女性候補者は苦笑していた。

 この報道を観ながら、私は思わず、「うーん。」と唸ってしまった。

 男性である私は今、家事をしながら生活をしている。

家事をしながら生活をしていると気づくことはたくさんあるけれども、私が思っているのは、働くことも大変だが、家事をしながら生活することも大変だということだ。

  掃除・洗濯は当たり前のこととされているし、当然、給料も出なければ、誰からも褒めらえない。そんな中で生活をしていると、息が詰まってきてしまう。

たまに「働いていた方がこれは楽だな。」と思ってしまう私も居るのだ。

 未だに、家事をすることは女性の仕事とされている風潮がある。

もし、家事をしたことがないという男性が居たら、1日だけでも良いから家事をしてみた方が良い。

どれだけ大変か分かるから。

 その一方で、「政治」は男の仕事とされている。

女性議員が出ているとは言え、まだまだ、政治の世界は「男社会」であり、ヘテロセクシズムな社会だ。

 新内閣が誕生すると必ず、女性閣僚が何人入ったのかと報道されるが、「女性」ということしか注目されないままで終わってしまう。

とりあえず、内閣のひな壇に色を添えるだけとしか考えていないのだろうか。

 日本の政治の世界はとても変な世界で「男社会の常識」を女性議員たちにも押し付けようとする。

彼女たちは男社会が作り上げた「常識」に従って、政治活動をせざるを得ない。

この話は女性議員だけの話ではない。

エスニック・マイノリティーであることをカミングアウトできない政治家だって居るだろうし、セクシャル・マイノリティーであることをカミングアウトできない政治家だって居るだろう。

 誰かが作り上げた不条理な「常識」に従うことが何故、政治の世界で起きるのか。

それは「有権者」からの評判を落としたくないからだ。

 私はあらゆる人から「あんまり、在日だと言わない方が良い。」と言われていた。

わざわざ、私は個人的なことを言うつもりはなかったし、そこまで気にすることもなかったが、こういう言い方をされてしまうと、なんだか不可思議に思ってしまう。

相手がどんな人間だろうが、一緒に何かを成し遂げられればそれで良いと思うのだが、どうやらそういうことを気にする人たちがたくさん居るらしい。

 私たちが生きている社会とはそういう社会だ。

「落ちてしまえばただの人。」という大野伴睦の名言を何よりも「切実」に感じている政治家たちはそんな社会であることを知っているので、不条理な常識に従って、彼らの世界を生きている。

 色のある国会にしていくためには、まず、そんな私が何者かということをしっかり表明出来るような社会にしていくことからだ。

その為には、まず、あらゆる人が自分の言葉で、同じ声の大きさで、語り合うスタイルが必要になってくると思う。

私がこうやって書く言葉もそんなスタイルに未来を託そうとしている行為の1つだと思ている。

 投票日はバイトが入ってしまったので、今日、期日前投票に行ってくる。

「天下国家のために。」という言葉を使って、上から目線な言葉で語る政治家たちよりも、個人の尊厳や幸せを理解し、その上で生命や財産を守ろうとする政治家の方が私は好きだ。

天下国家を上から目線で語る候補者ではなくて、個人の幸せや尊厳を第一に考えられる候補者に私は次の4年間を託したい。

棄権なんて私にはできないよ

  今日、自宅のポストを覗いてみると投票所整理券が届いていた。

街中を自転車で走っていると選挙カーが目立つようになってきた。

選挙の季節がやってきたのだ。

テレビやネットで政治の動きを色々と観て、色々とガッカリすることもあったけれど、こうやって選挙に行けることを嬉しく思う。

 ネットを覗いてみると思想家の東浩紀氏が投票の棄権を呼び掛けていた。

どうやら、今回の選挙は選択肢が少なくて、国税が掛かるし、全てを「くだらない。」と言いたいようだが、そうであれば、東浩紀氏が国政選挙に立候補して、政治家にでもなれば良い。だが、そういう力すらないのだろう。

 彼の主張を読んでいて、パソコンの前で思わず苦笑した。

 だが、彼の文章を読んでいて、私の一票とは一体何だろう?と思いを巡らせることができた。

 私の父や母には帰化する時まで選挙権がなかった。

在日コリアンには国政選挙で国会議員を選ぶ権利はもちろん、地方の首長や地方議会の議員を選ぶ権利すらない。

政党によっては政党の党首選挙にも参加できないような有様だ。

歴史的経緯から観ても、在日コリアンが選挙権を持つということは当たり前だと思うのだけれども、それは日本の法律では禁止されている。

 勘違いされていることではあるが、かつて、在日コリアンには韓国における参政権も持っていなかった。在日コリアンが韓国の大統領選挙や国会議員選挙で投票できるようになったのは最近のことで、選挙に参加する権利もなかったのだ。

 私の父や母、伯父や伯母、当然、祖父や祖母も、日本の参政権も韓国の参政権も有していなかったのである。

 その影響からだろうか。我が家では選挙に行くことが「義務」となっている。

 一番下の妹が選挙権を得た。

だが、妹はどこにでも居る普通の若者で、政治には全く興味が無い。

 ある日、妹が食卓で「選挙行くのかったるいんだよなぁ。今回は行かない。」と言ったところ、母が怒った。

 「あんた!何のために帰化したと思っているの?どれだけの苦労をしてこの権利を得たか分かってんの?」

 母の剣幕に妹は驚いていた。

 私の母は一家を代表して、帰化手続きを行っていた。

私たちがこの国で生きていくためにはこの国のシステムに合わせて、この国の求めている様々な条件をクリアし、分からない韓国語と格闘し、時には人の助けを借りながら、書類を作成していた母の立場として、妹を怒るのは当たり前のことだ。

ましてや、帰化していなかった時の様々な屈辱を母は体験してきたのだから。

 母の声は本当の「声」だったのだろう。

 そんな帰化した私たちとは別に、様々な事情から日本国籍を取得していない人たちは選挙をどのように考えているのだろうか。

 韓国籍の伯父の家に正月、挨拶しに行った時のことだ。

私が初めて、選挙に行くかもしれないと挨拶の場で言ったところ、伯父が真剣な目をして言った。

「おい、お前、選挙には絶対に行けよ。一票入れて無駄だと思うかもしれないが、俺たちは国籍を変えない限り、選挙なんて行けないんだからな。」

 その後、伯父はとうとうと、日本の政治の話をし始めた。

多分、伯父は選挙権のある私に観えない一票を託していたのだと思う。

 当然、今回の選挙にも私は必ず行く。

他の人たちと変わらない一票を私は投じるかもしれないが、私が投票所で居れた一票はそんな一票すら投じられない人たちの意見も入っているのだ。

 東浩紀氏の呼び掛け文をもう一度読んでいる。

「どこかに投票しなければというのは思考停止です。」

「積極的棄権」

「そんな一票を投じること自体、茶番を演じる議員の掌の載っていることではないでしょうか。」

 私はとことん、茶番を演じる議員の掌で踊ってやろうと思う。

私の一票は一票すら入れられない人たちの意見も入っている。

下らない選挙かもしれないが、選挙権を得るためにどんな人たちがどういう苦労をしているのか、選挙権が得られない人たちがどういう思いをしているのかを観てきている。

 棄権なんて私にはできないよ。

民主主義って何だ?

  ここ最近、テレビを観ていると、ずっと、政局と選挙の話題ばっかりだ。

 不可解な形で安倍首相は衆議院を解散し、民進党がまさかの形で、事実上、解党することになり、東京都知事のこしらえた「希望の党」が誕生し、「希望の党」に反対した民進党の議員が立憲民主党を作った。

ここまで政治の流れが選挙前に動いたことは、憲政史上、無かったことだと思う。

野党勢力は分裂したまま、今日の告示日を迎えた。

 告示日の前日であった昨日、私が幼少の頃から住んでいる街の駅前で、とうとう差別主義者たちによる集会が行われた。

 私はとある人から頼まれた雑用をこなし、急いで現場に向かった。

 地方都市で行われているヘイトスピーチの集会は何かが違う。

東京のような、人の多い街で行われていると、都市の雑音で、差別主義者たちのヘイトスピーチはかき消されるが、地方都市ではそうはいかない。

人が少ないこともあり、一段と目立ってくる。

 私の住む街にも在日コリアンは数多く、住んでいる。

だが、他の在日コリアンの街とは違って、私の住む街の在日たちは日本の人と変わらず生活をしてきた。

そのせいか、私の街では、在日コリアンが多く住む街であるということを知らない人も多いくらいだ。

 そんな街で起きたヘイトスピーチの集会は東京で起きているヘイトスピーチの集会とはまた、違って見えてくる。

  ましてや、その日の翌日は「国民」が主権を行使するための総選挙の告示日だ。

在日コリアンでありながらも、日本国籍を取り、参政権を有しているとは言え、差別主義者たちの言葉に手を縛られたような思いがした。

 選挙戦が始まってから、選挙活動の手伝いをしに行くかどうか迷っている。

私には支持している政党もあるし、支持している政治家も居る。

だけれども、正直、「帰化人」である私が選挙活動の邪魔にならないか?と不安になってしょうがない。

 昔、とある政治家のお手伝いをしたことがあった。

普段からお世話になっている人の紹介で、初めて、私も「政治活動」に参加することができた。

私がやった「政治活動」とは、政治家のビラ配りのことである。

ビラ配りの前に、政治家の事務所で様々なレクチャーを受けた。

 政治家の事務所でのレクチャーは面白い。

ビラの配り方はもちろん、どこの地域に配らなければいけないかも教わる。

そして、政治家が所属している政党への入党や支援者の募集もやっていた。

私は政党への入党や支援者募集の際に、必ず聴くことがある。

「私は元々は在日で、日本に帰化しましたが、政党への入党や党首選挙での投票権はありますか?」

事務所のスタッフはキョトンとしていたが、私にとっては大真面目な質問だった。

 ネットを観れば、「帰化人議員リスト」なんていう悪質なデマリストがあり、そのリストでネトウヨたちが遊んで、「こいつらは中国や韓国のための政治を行っている。」と訳の分からないことを言っている。

 かたや、現実の世界を観てみれば、蓮舫議員の『二重国籍』問題で大騒ぎし、植民地出身の政治家への差別的な言動は今でも続いている。

 こんな状況の中で思うことはただひとつ。

私はなるべく政治の場から離れようということだ。

仮に、帰化人である私が選挙活動に何らかの手伝いをしたとしよう。

それを理由に当選した政治家が批判されてしまうのは非常に心苦しい。

私のせいで支援をしていた政治家に迷惑をかけたくない。

 「そんなことはあり得ない。」という人たちも居るだろう。

だが、私は蓮舫議員の「二重国籍問題」を通して、この国の「良識ある」人々がどのような仕打ちを彼女にしたのかを知っている。

 この国では帰化した人間たちに、この国の政治のアリーナで声を出すことが何時、禁止になったのだろうか。

 こんな政治のアリーナでの発話禁止は帰化していない在日コリアンにまで及んでいる。

私の友人から聴いた話だが、私の友人が駅前で主催した集会に、帰化していない在日コリアンのゲストスピーカーを呼んで、スピーチをしてもらった。

ところが、駅前で、「その人は日本人ではないのに、何故、この場でスピーチをしているのか?」と文句を言う人が現れたそうだ。

 一体、この国の民主主義って何だろう?

私は別に自分が何人であるかは気にしないし、そんなことで、時間を割く意味もないと思っている。

だが、日本国籍を取った今ですら、私の声は「日本人のための民主主義」という言葉によって押しつぶされている。

 私は敢えて、今、問いたい。

帰化人の私は日本の民主主義のアリーナの中で声を上げてはいけないのか?」

 国会前のデモで、SEALDsが「民主主義って何だ?」とコールしていた。

彼らは迷わず、その後に続く言葉として、「これだ!」と言っていた。

 私は未だにこの国で、「民主主義とは何だ?」と問われても、「これだ!」と言えるものが見つからない。

いや、「これだ!」という声すら出せない。

この国の民主主義は日本民族の血を受け継いだ「日本人」だけのものらしいからだ。

 だが、民主主義とはあらゆる人たちが平等な声の大きさで、話し合う政治スタイルなのではないか?

 私は言葉がはく奪されたところから「民主主義」を始めたい。

文化は境界線を超えて

  昨日、ノーベル文学賞の受賞者が発表された。

日本国内では、長年、村上春樹が受賞候補とされていたが、今年は、日系イギリス人のカズオ・イシグロが受賞した。

 実のところ、私はカズオ・イシグロのファンだったので、受賞されたとネットで観た時に思わず、「やったぁー!」と叫んでしまった(笑)

多分、誰かが栄誉を獲得して、叫んだのは2010年のワールドカップでサッカー日本代表デンマークを下した時、以来である。

 カズオ・イシグロノーベル文学賞を受賞したと発表されるや否や、彼の経歴が話題になった。

 彼は長崎生まれの日系イギリス人で、5歳の時にイギリスに渡って、イギリスで教育を受けた。その為、日本語は話せないらしい。

喜びの声の中には彼のノーベル文学賞受賞を日本人による受賞(彼のエスニシティ―的な意味での「日本人」)だと言って、喜んでいる人も居た。

 だが、私はこんな喜び方に違和感があった。

それはカズオ・イシグロの言葉が、「日本人」だからこそ得られた言葉ではないと思っているからだ。

 私の家族は元々、焼肉屋を経営していたので、我が家の食卓には当たり前に「韓国料理」が並んでいた。

私は今まで、家庭で食べる「韓国料理」こそが「韓国料理」であると思い込んでいた。

なので、大学時代、釜山に留学することが決まった時、食には困らないだろうと思っていた。

 だが、その考えは釜山で生活を始めてから、すぐに違うと気づいた。

我が家で出ている「韓国料理」と釜山で食べられている「韓国料理」が全く違うのだ。

確かに、我が家で出ている「韓国料理」に近い、「韓国料理」は釜山にも存在する。

だけれども、釜山で食べられている「韓国料理」とは何かが違う。

 実は釜山で食べられている「韓国料理」は韓国の中でも味が濃く、辛いと言われているらしい。

私のゼミの指導教官は湖西地域の出身だが、釜山料理は味が濃いと言っていたし、朝鮮戦争の影響で、北朝鮮から来た避難民による釜山独特の食文化も存在する。

 まず、食から馴れなければいけないと思い、私は我が家の「韓国料理」との違いを克服するため、一年間、釜山の「韓国料理」しか食べないと誓って、実際に韓国料理しか食べなかった。

 そのお陰で、今では韓国の「韓国料理」が、いや、釜山の「韓国料理」が大好きになった。

釜山留学中は釜山の「韓国料理」のみならず、あらゆる地方の「韓国料理」を食べた。
韓国では全羅南道の料理が美味しいと言われているし、それは認めるが、やっぱり、私の舌に合っているのは、釜山の「韓国料理」である。

 とは言っても、やはり、我が家の在日コリアンの家庭料理も大好きだ。

やっぱり、我が家の焼き肉のタレや我が家のキムチは美味しい。

余所行きじゃない「韓国料理」が食卓に並んでいるとホッとする。

釜山の「韓国料理」を食べている時とは違う安心感だ。

 カズオ・イシグロの話をしていたのに、何で、韓国料理の話をしているのかと思われた方も居るかもしれない。

 だが、考えて欲しい。

カズオ・イシグロは5歳で日本を出て、イギリスで育ってきた。

言わば、多文化な世界で育ち、多文化な中であらゆる言葉や文学に出会って、素晴らしい文学を紡ぎだしてきた人だ。

 カズオ・イシグロの言葉は我が家の韓国料理にもダブってくる。

我が家の韓国料理は父方の済州島の味、母方の祖父の忠清南道の味、ソウルの味、そして、日本の味が混ざって、今の安心感のある「韓国料理」になった。

 文学も食もどちらも人が作り出しているという意味では「文化」という枠に入るだろう。

 「文化」とはそんな人と人との交流やあらゆる文化との「出会い」の中で生まれてくるものだと思っている。

 韓国の韓国料理ではスパムが良く出て来る。

どうやらアメリカの基地があった影響らしいが、これは我が家では出て来ない。

 一方、我が家ではキムチを漬けるのに昆布や魚醤を使う。

韓国で食べているキムチとは違って、出汁が味の決め手になってくる。

実は韓国で出汁を味の決め手にしているキムチを食べたことがない。

 これから異なる文化と出会ったおかげでできた素晴らしいものだ。

 カズオ・イシグロの紡ぎだしてきた文学も同じものだと思っている。

彼は日本映画からも影響を受けながらも、イギリス文学の伝統の最先端に居ると言われてる。

そして、何より食事は身体を癒すための食事であり、文学は精神を癒すための食事みたいなものだ。

 私たちは「言葉」を食べて生きている。

その「言葉」は境界線が無いと示しながらも、境界線と向き合い、あらゆる文化と向き合い、作り上げられたものだ。

 境界線が無いと証明している文化に、一体、誰が境界線を引こうとしているのだろうか?

 境界線を引くことは時に、残酷なことを引き起こす。

そんな境界線を、誰かが引く行為に対抗する時に、境界線を越えた、境界線の存在を否定する文化が光ってくる。

もしかしたら、カズオ・イシグロノーベル文学賞を受賞したのは境界線を引くことを厭わない現代だからなのかもしれない。

私も難民になっていたかもしれない。

 ここ数日、群馬県で遺跡巡りの旅をしていた。

古代の群馬では、朝鮮半島から来た人々が、数多く、住んでいたらしく、朝鮮半島の古代文化が色濃く残っている古代遺跡がたくさんあった。

 私が生まれる、はるか昔のことだけれど、この時代から人と人の動きから作られる文化や歴史があったことに、私は感動した。

そんな時、私は麻生太郎副総理の言葉を知った。 

  麻生副総理は講演会の中で、朝鮮半島で有事が起きた際に、大量の難民が日本に押し寄せる可能性に触れながら、武装難民かもしれない。警察で対応するのか。自衛隊、防衛出動か。射殺ですか。真剣に考えなければならない」と発言した。

この発言に抗議する言葉がネット上だけではなく、あらゆる場面で出てきた。

 麻生副総理の言葉に対しては、もちろん、反対だ。だが、麻生副総理に対して、賛成している人たちの言葉や反対している人たちの言葉を観ていると、ある「出来事」がぽっかりと忘れられていることに気づく。

今みたいな時代だからこそ、本当は思い出して欲しいのだけれども、そんなことも叶わない様だ。

 1950年代の話である。

日本では在日コリアンたちを北朝鮮に帰還させる事業が行われていた。

今では信じられないかもしれないが、当時、「北朝鮮は地上の楽園」という文言が日本人や在日関係無く、飛び交ってい、この言葉を信じた人々は、次々に北朝鮮へ「帰国」した。

その総数は約10万人だと言われている。

この帰還事業で帰国したのは在日コリアンだけではない。

在日コリアンの日本人妻や日本人夫たちも北朝鮮へと渡っていった。

  この一大事業に、我が家は当事者として関わっていた。

1950年代の帰還事業が華やかかりし頃、私の祖父の弟一家北朝鮮へ帰国し、私の祖父一家北朝鮮へ帰国する予定だったが、帰国途中に、民団の北送反対派に「説得」されて、引き返してきた。

帰国後、祖父の弟一家と、どうやって連絡を取っていたのか、私は知らない。

 私の母も北朝鮮への「帰国」を勧誘されていた。

母が勧誘されていた頃は、1970年代後半から80年代で、帰還事業が終わろうとしている頃だった。

母を育てていた祖母はあの時代にしては珍しく、韓国の大学を卒業し、韓国で学校の先生を務めていた経歴があった。

その経歴の為、文字が書けない人たちに代わって、韓国や北朝鮮に送る手紙を代筆していたそうだ。

そんな有名人だった祖母の下に、ある日、総聯の帰還事業の担当者がやってきた。

担当者は祖母に、北朝鮮の大学の先生の座を約束しているので、娘(母のこと)と一緒に北朝鮮に帰還して欲しいと頼み込んだ。

祖母は朝鮮戦争経験者だったため、この話を即座に断った。

もし、父方の祖父の一家や、母方の祖母が母を連れて、北朝鮮に帰国していたら、どうなっていただろう。

 北朝鮮から日本に難民としてやってくる人たちは帰還事業で帰国した人々になるのではないかと思う。

日本との繋がりが少しでもある人たちには日本での生活が北朝鮮の生活に比べて豊かであることは知っている。

だが、朝鮮半島有事が起き、そんな人たちがもし、「武装難民」として射殺されたらどうなるのか。

 朝鮮半島での有事の可能性が高まっている中で、安穏と生きているこの私も、「武装難民」とされていたかもしれない、もうひとつの現実を感じるようになってきた。

 我が家では今後、難民となるであろう、まだ見ぬ親戚をどうするかを話し合うことになるだろう。「武装難民」として、日本政府に銃殺される可能性があった人間たちとして。

 北朝鮮での有事における「難民」とヨーロッパにおけるシリア難民の文脈とは違う。何故ならば、元来、日本に住んでいた人々が、日本政府の推進した帰還事業によって、北朝鮮に帰国しており、また、日本国籍保持者も存在するからだ。

 麻生副総理の発言の是非を巡って、こんな、ナチュラルに帰還事業が忘れられていたということが少し、ショックだった。

そして、どんな人たちが、日本に「帰国」するかということも語られない。

 国家という魔物が動き出す時はそうなのかもしれない。

 歴史は忘れられるものかもしれないが、歴史の延長線上で生き続けている人たちも沢山、存在する。そんな存在を、人々はすっかり忘れてしまっているということだろうか。

新潟で観た、帰還事業の案内板を思い出す。

傷だらけの看板の文字を読むことが、とても難しかった。

 渡来人の記憶が歴史になったように、いずれ、在日の記憶も歴史となるだろう。

私は北朝鮮に家族が居る人間として、あの時代の延長線上で生きている人間として、こうして、傷だらけの看板の文字の上に書いている。

名前をめぐる冒険

  Twitterを眺めていると、プレミアム・モルツの宣伝が流れてきた。

「ビール、美味そうだなぁ。」と眺めていると、次々と差別的なコメントが書き込まれれる。

 どうやら、宣伝に出ていた水原希子さんのルーツを攻撃しているらしい。

 この攻撃を観ていて、ビールを飲みたいという気持ちから、一気に何とも言えない嫌な気持ちになってしまった。

 嫌な気持ちになったのはプレミアムモルツの宣伝のコメントだけではない。

こんなコメントが平然と、Twitter上では流されていた。

 

 こんな呑気で、何も考えていないツイートを見て、思わず、あっけに取られてしまった。

 在日コリアンである私には、かつて、2つの名前があった。

1つは日本社会の中で使っている「通名」と、もう1つは韓国人としての名前である「本名」である。

どうして「通名」があるのか? 

わざわざ日本名を使わなくて良いじゃないか。

と思う人も多いだろう。

 だが、日本名でなければ、銀行口座を開けない問題であったり、就職ができない問題などがあり、生きていくためにはどうしても「日本名」が必要になってくる。

そこで、植民地の頃の「創氏改名」の時につけた、名字を「通名」として、用いることになった。

 私は現在、韓国籍から日本籍に帰化して、「通名」を「本名」として、使っている。

この「通名」だが、在日だとバレバレの名字なのだ。

私が本名を名乗ると、「ああ、在日の方ですか?」なんて、奇特な人に言われることもある。

 ある日、父と一緒に食事を共にしていた時のことだった。

父は突然、こんなことを言い始めた。

「どうして、帰化した時に、名字を在日だと分からないような名字にしなかったのだろう。だから、お前、婿養子に行って、名字を変えることだってありだぞ。」

 もう、「通名」すら使えなくなっている現実が私の目の前にあった。

 「通名」を使うな。という人たちが居るけれども、「通名」を使わなければ生きていけないし、そもそも、「通名」で帰化したとしても、日本人だと認めてくれない。

 都合の良い時だけ、日本人らしさを求めて、都合の悪い時には「外国人」だと言って、排除する。

それは名前にしても同じことだったようだ。 

 

「政治の季節」の忘れ物

  最近、ネットを観ていると落ち着かない。

以前から酷くなっていたSNS上のヘイトスピーチがより酷くなり、抗議も増えていっているからだ。

 ヘイトスピーチを語る人々、そして、それに対抗する人々といった構造で分けられがちである。

 そんな対立構造の中で何かを語る時期を「政治の季節」なんて呼ぶのかもしれない。

 私もそんな「政治の季節」の中で過ごしていて、ヘイトスピーチに対抗する側として、様々なことをしてきた。

しかし、そんな対立構造の中で生きていると、何かが忘れられてしまっている気がする。

 それは一体何だろう。

 私は何度かヘイトスピーチデモのカウンターに出掛けたことがある。

怖かったけれども、実際に自分の目で見てみようと思ったし、いつまでも、当事者である私が安全圏に居るのは変だと思ったからだ。

 私がカウンターとして参加したヘイトスピーチのデモは秋葉原と東上野の中間地点で行われていた。

東上野には私の家族と私がおよそ50年近く通っているコリアンタウンがある。

私は街を守りたい気持ちもあって、そのカウンターに出掛けた。

 ヘイトスピーチを垂れ流す人々のデモ隊は予想以上に大きな規模だった。

本当に嫌なことばかりを叫んでいる。

カウンターの声もどんどん熱が入ってくる。

私はずっと写真を撮りながら、現場を見守ることにした。

 デモも終盤に差し掛かり、東上野の近くの公園で終点を迎えた。

カウンターの人々も公園の近くで、デモ隊に対して、抗議の声を上げている。

すると、私の近くに居たカウンターの男が、デモ隊に襲い掛かろうとした。

私は彼を止めた。

「これ以上やると刺激して、ここに住む同胞に何かあると困るからやめてくれ。」

同胞なんていう言葉は、普段、使わないのに、こんな時に、ふと言ってしまう。

なんだか、そんな言葉を使っている自分が恥ずかしくもなったし、少し嫌にもなった。

 デモは「無事」に終了した。

そして、私が制止したカウンターの男に一言、声を掛けた。

「先ほどはすみませんでした。この近くにコリアンタウンもあるので、帰りに是非寄って下さい。」

東上野のお店の人でもないのに、変な言葉である。

 男は私の言葉を聴いて、こんなことを言った。

「そうだったんですか。知らなかったです。」

 

「ええええええ。」

 

心の中で思いっきり叫んでしまった。

 

「私たちの街って、忘れられているのか・・・・・・。」

 

 何とも言えない気分になる中、私は帰りに、友人への結婚祝いとして、柚子茶を買いに東上野に出掛けていった。

しかし、路上で声を上げていた人たちを東上野のコリアンタウンで見かけることはなかった。

いつもよりも静かな東上野だったと思う。

 「反差別」という掛け声の中で、差別されている側の日常が忘れられていると感じさせられた瞬間だった。

 言葉ばかりが先行している「政治の季節」の中で、私がこうやって、ブログを書いているのは、当事者の日常や生活をちょっとでも知って欲しいという気持ちがあるからだ。

 はっきり言ってしまえば、在日の話なんて本当にどうしようもないやんちゃな話が多い。

良いおじさん2人がどうしようもないことで殴り合いの喧嘩して、最終的に、奥さんたちが「あんたたち、いい加減にしろよ。」と叫んで、喧嘩が終わったとか、

法的に怪しい年齢の人たちがお酒を飲み過ぎてやんちゃしていたとか、

法事の時にブタを屠って、一家皆で食べてとても幸せだったとか、

焼肉屋の金網を洗うと手がボロボロになる話とか、

そんな話ばっかりだ。

 確かに差別されている日常もあるし、大きな社会構造という崖の前で立ちすくむこともある。

 でも、そんな日々だけじゃない。

幸せをかみしめている日々も送っている。

 もしかしたら、こんな日常の話は「恥ずかしい話」と思って、誰も語らないかもしれない。

だが、私があえて、インターネット上で書くのは、こんな日常の話の中に、差別があった中でも生き抜いた人たちの輝きがあると思うからだ。

 在日の持っている歴史や生活や文化は決して、屈辱的なものだけではない。

 もし、あの時、差別によって、私の祖父母が生命を落としていたら、私の生命はなかった。

 差別がある中でも、彼らなりに決断し、その生命のバトンを私たちに受け継いできた。

 在日の歴史や生活や文化はそんな先人たちから渡されたバトンなのである。

 私は路上の活動に参加することだけが正解じゃないと思っている。活動の中で見落としがちなものを拾って、後世に受け継いでいくことも、立派な「反差別」じゃないか。

 事実、反差別という言葉のない時代の人たちはそうやって生き抜いてきた。

「チョーセン人」だの「カンコク人」だと不条理にバカにされ、貶され、時に殴られても、どうにかして生き抜き、生活をしながら、あらゆる歴史や文化を残してきた。

 私が「反差別」を標榜するのは、差別にただ、反対したいからではない。

差別の中で生き抜いた人たちの姿を、差別が跋扈する時代だからこそ語り、そして、その生命の灯火を未来に生きる人たちに託すためである。

それこそが、「反差別」に血を通わせると信じている。

 私は路上で活動している人たちに「当事者の気持ちがない!」と上から目線で説教したいわけじゃない。

ただ、恐怖でその場に来られない人、「反差別」という言葉が無かった時代の人たちに、ほんの1秒でも良いから想いを馳せて欲しいだけだ。

もっと言えば、差別されている当事者に出会って欲しい。

 日本の教育を受けてきた人たちは、在日のことを知らなくて当たり前だと思うし、「詳しい年代まで知ってね!」なんていうことは言わない。

ただ、出会って欲しいだけだ。

 あの時代を生き抜いてきた人たちと一緒に過ごした私にとって、あの時代を生き抜いてきた人たちの送ってきた日常を語り継ぐことがひとつの「反差別」だ。

 こんな「政治の季節」には日常の話が忘れ去られるかもしれない。

でも、こんな時こそ、日常や生活や文化や歴史に目を向けて欲しい。

そんなことが路上でのカウンターとは違うスタイルの「差別に向き合うこと」だと思う。

 私がレイシストたちから守りたいのはチャンジャを安心して食べられる生活だ。

昔から大切にしてきた私らしさを守るために、私はインターネットという場で、言葉を尽くしている。

  レイシストたちもこの文章を読むことだろう。そんな時に、こんな人間の顔があったと思える文章を私は書きたいと思っている。

 そして、いつの日か、日本人、在日、韓国人、朝鮮人、カウンター、レイシスト関係無く、焼肉を焼いている七輪を囲むことが私の理想である。