ここ数日、群馬県で遺跡巡りの旅をしていた。
古代の群馬では、朝鮮半島から来た人々が、数多く、住んでいたらしく、朝鮮半島の古代文化が色濃く残っている古代遺跡がたくさんあった。
私が生まれる、はるか昔のことだけれど、この時代から人と人の動きから作られる文化や歴史があったことに、私は感動した。
そんな時、私は麻生太郎副総理の言葉を知った。
麻生副総理は講演会の中で、朝鮮半島で有事が起きた際に、大量の難民が日本に押し寄せる可能性に触れながら、「武装難民かもしれない。警察で対応するのか。自衛隊、防衛出動か。射殺ですか。真剣に考えなければならない」と発言した。
この発言に抗議する言葉がネット上だけではなく、あらゆる場面で出てきた。
麻生副総理の言葉に対しては、もちろん、反対だ。だが、麻生副総理に対して、賛成している人たちの言葉や反対している人たちの言葉を観ていると、ある「出来事」がぽっかりと忘れられていることに気づく。
今みたいな時代だからこそ、本当は思い出して欲しいのだけれども、そんなことも叶わない様だ。
1950年代の話である。
日本では在日コリアンたちを北朝鮮に帰還させる事業が行われていた。
今では信じられないかもしれないが、当時、「北朝鮮は地上の楽園」という文言が日本人や在日関係無く、飛び交ってい、この言葉を信じた人々は、次々に北朝鮮へ「帰国」した。
その総数は約10万人だと言われている。
この帰還事業で帰国したのは在日コリアンだけではない。
在日コリアンの日本人妻や日本人夫たちも北朝鮮へと渡っていった。
この一大事業に、我が家は当事者として関わっていた。
1950年代の帰還事業が華やかかりし頃、私の祖父の弟一家は北朝鮮へ帰国し、私の祖父一家は北朝鮮へ帰国する予定だったが、帰国途中に、民団の北送反対派に「説得」されて、引き返してきた。
帰国後、祖父の弟一家と、どうやって連絡を取っていたのか、私は知らない。
私の母も北朝鮮への「帰国」を勧誘されていた。
母が勧誘されていた頃は、1970年代後半から80年代で、帰還事業が終わろうとしている頃だった。
母を育てていた祖母はあの時代にしては珍しく、韓国の大学を卒業し、韓国で学校の先生を務めていた経歴があった。
その経歴の為、文字が書けない人たちに代わって、韓国や北朝鮮に送る手紙を代筆していたそうだ。
そんな有名人だった祖母の下に、ある日、総聯の帰還事業の担当者がやってきた。
担当者は祖母に、北朝鮮の大学の先生の座を約束しているので、娘(母のこと)と一緒に北朝鮮に帰還して欲しいと頼み込んだ。
祖母は朝鮮戦争経験者だったため、この話を即座に断った。
もし、父方の祖父の一家や、母方の祖母が母を連れて、北朝鮮に帰国していたら、どうなっていただろう。
北朝鮮から日本に難民としてやってくる人たちは帰還事業で帰国した人々になるのではないかと思う。
日本との繋がりが少しでもある人たちには日本での生活が北朝鮮の生活に比べて豊かであることは知っている。
だが、朝鮮半島有事が起き、そんな人たちがもし、「武装難民」として射殺されたらどうなるのか。
朝鮮半島での有事の可能性が高まっている中で、安穏と生きているこの私も、「武装難民」とされていたかもしれない、もうひとつの現実を感じるようになってきた。
我が家では今後、難民となるであろう、まだ見ぬ親戚をどうするかを話し合うことになるだろう。「武装難民」として、日本政府に銃殺される可能性があった人間たちとして。
北朝鮮での有事における「難民」とヨーロッパにおけるシリア難民の文脈とは違う。何故ならば、元来、日本に住んでいた人々が、日本政府の推進した帰還事業によって、北朝鮮に帰国しており、また、日本国籍保持者も存在するからだ。
麻生副総理の発言の是非を巡って、こんな、ナチュラルに帰還事業が忘れられていたということが少し、ショックだった。
そして、どんな人たちが、日本に「帰国」するかということも語られない。
国家という魔物が動き出す時はそうなのかもしれない。
歴史は忘れられるものかもしれないが、歴史の延長線上で生き続けている人たちも沢山、存在する。そんな存在を、人々はすっかり忘れてしまっているということだろうか。
新潟で観た、帰還事業の案内板を思い出す。
傷だらけの看板の文字を読むことが、とても難しかった。
渡来人の記憶が歴史になったように、いずれ、在日の記憶も歴史となるだろう。
私は北朝鮮に家族が居る人間として、あの時代の延長線上で生きている人間として、こうして、傷だらけの看板の文字の上に書いている。