私も難民になっていたかもしれない。

 ここ数日、群馬県で遺跡巡りの旅をしていた。

古代の群馬では、朝鮮半島から来た人々が、数多く、住んでいたらしく、朝鮮半島の古代文化が色濃く残っている古代遺跡がたくさんあった。

 私が生まれる、はるか昔のことだけれど、この時代から人と人の動きから作られる文化や歴史があったことに、私は感動した。

そんな時、私は麻生太郎副総理の言葉を知った。 

  麻生副総理は講演会の中で、朝鮮半島で有事が起きた際に、大量の難民が日本に押し寄せる可能性に触れながら、武装難民かもしれない。警察で対応するのか。自衛隊、防衛出動か。射殺ですか。真剣に考えなければならない」と発言した。

この発言に抗議する言葉がネット上だけではなく、あらゆる場面で出てきた。

 麻生副総理の言葉に対しては、もちろん、反対だ。だが、麻生副総理に対して、賛成している人たちの言葉や反対している人たちの言葉を観ていると、ある「出来事」がぽっかりと忘れられていることに気づく。

今みたいな時代だからこそ、本当は思い出して欲しいのだけれども、そんなことも叶わない様だ。

 1950年代の話である。

日本では在日コリアンたちを北朝鮮に帰還させる事業が行われていた。

今では信じられないかもしれないが、当時、「北朝鮮は地上の楽園」という文言が日本人や在日関係無く、飛び交ってい、この言葉を信じた人々は、次々に北朝鮮へ「帰国」した。

その総数は約10万人だと言われている。

この帰還事業で帰国したのは在日コリアンだけではない。

在日コリアンの日本人妻や日本人夫たちも北朝鮮へと渡っていった。

  この一大事業に、我が家は当事者として関わっていた。

1950年代の帰還事業が華やかかりし頃、私の祖父の弟一家北朝鮮へ帰国し、私の祖父一家北朝鮮へ帰国する予定だったが、帰国途中に、民団の北送反対派に「説得」されて、引き返してきた。

帰国後、祖父の弟一家と、どうやって連絡を取っていたのか、私は知らない。

 私の母も北朝鮮への「帰国」を勧誘されていた。

母が勧誘されていた頃は、1970年代後半から80年代で、帰還事業が終わろうとしている頃だった。

母を育てていた祖母はあの時代にしては珍しく、韓国の大学を卒業し、韓国で学校の先生を務めていた経歴があった。

その経歴の為、文字が書けない人たちに代わって、韓国や北朝鮮に送る手紙を代筆していたそうだ。

そんな有名人だった祖母の下に、ある日、総聯の帰還事業の担当者がやってきた。

担当者は祖母に、北朝鮮の大学の先生の座を約束しているので、娘(母のこと)と一緒に北朝鮮に帰還して欲しいと頼み込んだ。

祖母は朝鮮戦争経験者だったため、この話を即座に断った。

もし、父方の祖父の一家や、母方の祖母が母を連れて、北朝鮮に帰国していたら、どうなっていただろう。

 北朝鮮から日本に難民としてやってくる人たちは帰還事業で帰国した人々になるのではないかと思う。

日本との繋がりが少しでもある人たちには日本での生活が北朝鮮の生活に比べて豊かであることは知っている。

だが、朝鮮半島有事が起き、そんな人たちがもし、「武装難民」として射殺されたらどうなるのか。

 朝鮮半島での有事の可能性が高まっている中で、安穏と生きているこの私も、「武装難民」とされていたかもしれない、もうひとつの現実を感じるようになってきた。

 我が家では今後、難民となるであろう、まだ見ぬ親戚をどうするかを話し合うことになるだろう。「武装難民」として、日本政府に銃殺される可能性があった人間たちとして。

 北朝鮮での有事における「難民」とヨーロッパにおけるシリア難民の文脈とは違う。何故ならば、元来、日本に住んでいた人々が、日本政府の推進した帰還事業によって、北朝鮮に帰国しており、また、日本国籍保持者も存在するからだ。

 麻生副総理の発言の是非を巡って、こんな、ナチュラルに帰還事業が忘れられていたということが少し、ショックだった。

そして、どんな人たちが、日本に「帰国」するかということも語られない。

 国家という魔物が動き出す時はそうなのかもしれない。

 歴史は忘れられるものかもしれないが、歴史の延長線上で生き続けている人たちも沢山、存在する。そんな存在を、人々はすっかり忘れてしまっているということだろうか。

新潟で観た、帰還事業の案内板を思い出す。

傷だらけの看板の文字を読むことが、とても難しかった。

 渡来人の記憶が歴史になったように、いずれ、在日の記憶も歴史となるだろう。

私は北朝鮮に家族が居る人間として、あの時代の延長線上で生きている人間として、こうして、傷だらけの看板の文字の上に書いている。

名前をめぐる冒険

  Twitterを眺めていると、プレミアム・モルツの宣伝が流れてきた。

「ビール、美味そうだなぁ。」と眺めていると、次々と差別的なコメントが書き込まれれる。

 どうやら、宣伝に出ていた水原希子さんのルーツを攻撃しているらしい。

 この攻撃を観ていて、ビールを飲みたいという気持ちから、一気に何とも言えない嫌な気持ちになってしまった。

 嫌な気持ちになったのはプレミアムモルツの宣伝のコメントだけではない。

こんなコメントが平然と、Twitter上では流されていた。

 

 こんな呑気で、何も考えていないツイートを見て、思わず、あっけに取られてしまった。

 在日コリアンである私には、かつて、2つの名前があった。

1つは日本社会の中で使っている「通名」と、もう1つは韓国人としての名前である「本名」である。

どうして「通名」があるのか? 

わざわざ日本名を使わなくて良いじゃないか。

と思う人も多いだろう。

 だが、日本名でなければ、銀行口座を開けない問題であったり、就職ができない問題などがあり、生きていくためにはどうしても「日本名」が必要になってくる。

そこで、植民地の頃の「創氏改名」の時につけた、名字を「通名」として、用いることになった。

 私は現在、韓国籍から日本籍に帰化して、「通名」を「本名」として、使っている。

この「通名」だが、在日だとバレバレの名字なのだ。

私が本名を名乗ると、「ああ、在日の方ですか?」なんて、奇特な人に言われることもある。

 ある日、父と一緒に食事を共にしていた時のことだった。

父は突然、こんなことを言い始めた。

「どうして、帰化した時に、名字を在日だと分からないような名字にしなかったのだろう。だから、お前、婿養子に行って、名字を変えることだってありだぞ。」

 もう、「通名」すら使えなくなっている現実が私の目の前にあった。

 「通名」を使うな。という人たちが居るけれども、「通名」を使わなければ生きていけないし、そもそも、「通名」で帰化したとしても、日本人だと認めてくれない。

 都合の良い時だけ、日本人らしさを求めて、都合の悪い時には「外国人」だと言って、排除する。

それは名前にしても同じことだったようだ。 

 

「政治の季節」の忘れ物

  最近、ネットを観ていると落ち着かない。

以前から酷くなっていたSNS上のヘイトスピーチがより酷くなり、抗議も増えていっているからだ。

 ヘイトスピーチを語る人々、そして、それに対抗する人々といった構造で分けられがちである。

 そんな対立構造の中で何かを語る時期を「政治の季節」なんて呼ぶのかもしれない。

 私もそんな「政治の季節」の中で過ごしていて、ヘイトスピーチに対抗する側として、様々なことをしてきた。

しかし、そんな対立構造の中で生きていると、何かが忘れられてしまっている気がする。

 それは一体何だろう。

 私は何度かヘイトスピーチデモのカウンターに出掛けたことがある。

怖かったけれども、実際に自分の目で見てみようと思ったし、いつまでも、当事者である私が安全圏に居るのは変だと思ったからだ。

 私がカウンターとして参加したヘイトスピーチのデモは秋葉原と東上野の中間地点で行われていた。

東上野には私の家族と私がおよそ50年近く通っているコリアンタウンがある。

私は街を守りたい気持ちもあって、そのカウンターに出掛けた。

 ヘイトスピーチを垂れ流す人々のデモ隊は予想以上に大きな規模だった。

本当に嫌なことばかりを叫んでいる。

カウンターの声もどんどん熱が入ってくる。

私はずっと写真を撮りながら、現場を見守ることにした。

 デモも終盤に差し掛かり、東上野の近くの公園で終点を迎えた。

カウンターの人々も公園の近くで、デモ隊に対して、抗議の声を上げている。

すると、私の近くに居たカウンターの男が、デモ隊に襲い掛かろうとした。

私は彼を止めた。

「これ以上やると刺激して、ここに住む同胞に何かあると困るからやめてくれ。」

同胞なんていう言葉は、普段、使わないのに、こんな時に、ふと言ってしまう。

なんだか、そんな言葉を使っている自分が恥ずかしくもなったし、少し嫌にもなった。

 デモは「無事」に終了した。

そして、私が制止したカウンターの男に一言、声を掛けた。

「先ほどはすみませんでした。この近くにコリアンタウンもあるので、帰りに是非寄って下さい。」

東上野のお店の人でもないのに、変な言葉である。

 男は私の言葉を聴いて、こんなことを言った。

「そうだったんですか。知らなかったです。」

 

「ええええええ。」

 

心の中で思いっきり叫んでしまった。

 

「私たちの街って、忘れられているのか・・・・・・。」

 

 何とも言えない気分になる中、私は帰りに、友人への結婚祝いとして、柚子茶を買いに東上野に出掛けていった。

しかし、路上で声を上げていた人たちを東上野のコリアンタウンで見かけることはなかった。

いつもよりも静かな東上野だったと思う。

 「反差別」という掛け声の中で、差別されている側の日常が忘れられていると感じさせられた瞬間だった。

 言葉ばかりが先行している「政治の季節」の中で、私がこうやって、ブログを書いているのは、当事者の日常や生活をちょっとでも知って欲しいという気持ちがあるからだ。

 はっきり言ってしまえば、在日の話なんて本当にどうしようもないやんちゃな話が多い。

良いおじさん2人がどうしようもないことで殴り合いの喧嘩して、最終的に、奥さんたちが「あんたたち、いい加減にしろよ。」と叫んで、喧嘩が終わったとか、

法的に怪しい年齢の人たちがお酒を飲み過ぎてやんちゃしていたとか、

法事の時にブタを屠って、一家皆で食べてとても幸せだったとか、

焼肉屋の金網を洗うと手がボロボロになる話とか、

そんな話ばっかりだ。

 確かに差別されている日常もあるし、大きな社会構造という崖の前で立ちすくむこともある。

 でも、そんな日々だけじゃない。

幸せをかみしめている日々も送っている。

 もしかしたら、こんな日常の話は「恥ずかしい話」と思って、誰も語らないかもしれない。

だが、私があえて、インターネット上で書くのは、こんな日常の話の中に、差別があった中でも生き抜いた人たちの輝きがあると思うからだ。

 在日の持っている歴史や生活や文化は決して、屈辱的なものだけではない。

 もし、あの時、差別によって、私の祖父母が生命を落としていたら、私の生命はなかった。

 差別がある中でも、彼らなりに決断し、その生命のバトンを私たちに受け継いできた。

 在日の歴史や生活や文化はそんな先人たちから渡されたバトンなのである。

 私は路上の活動に参加することだけが正解じゃないと思っている。活動の中で見落としがちなものを拾って、後世に受け継いでいくことも、立派な「反差別」じゃないか。

 事実、反差別という言葉のない時代の人たちはそうやって生き抜いてきた。

「チョーセン人」だの「カンコク人」だと不条理にバカにされ、貶され、時に殴られても、どうにかして生き抜き、生活をしながら、あらゆる歴史や文化を残してきた。

 私が「反差別」を標榜するのは、差別にただ、反対したいからではない。

差別の中で生き抜いた人たちの姿を、差別が跋扈する時代だからこそ語り、そして、その生命の灯火を未来に生きる人たちに託すためである。

それこそが、「反差別」に血を通わせると信じている。

 私は路上で活動している人たちに「当事者の気持ちがない!」と上から目線で説教したいわけじゃない。

ただ、恐怖でその場に来られない人、「反差別」という言葉が無かった時代の人たちに、ほんの1秒でも良いから想いを馳せて欲しいだけだ。

もっと言えば、差別されている当事者に出会って欲しい。

 日本の教育を受けてきた人たちは、在日のことを知らなくて当たり前だと思うし、「詳しい年代まで知ってね!」なんていうことは言わない。

ただ、出会って欲しいだけだ。

 あの時代を生き抜いてきた人たちと一緒に過ごした私にとって、あの時代を生き抜いてきた人たちの送ってきた日常を語り継ぐことがひとつの「反差別」だ。

 こんな「政治の季節」には日常の話が忘れ去られるかもしれない。

でも、こんな時こそ、日常や生活や文化や歴史に目を向けて欲しい。

そんなことが路上でのカウンターとは違うスタイルの「差別に向き合うこと」だと思う。

 私がレイシストたちから守りたいのはチャンジャを安心して食べられる生活だ。

昔から大切にしてきた私らしさを守るために、私はインターネットという場で、言葉を尽くしている。

  レイシストたちもこの文章を読むことだろう。そんな時に、こんな人間の顔があったと思える文章を私は書きたいと思っている。

 そして、いつの日か、日本人、在日、韓国人、朝鮮人、カウンター、レイシスト関係無く、焼肉を焼いている七輪を囲むことが私の理想である。

関東大震災後の虐殺事件で犠牲になった全ての方々へ

 関東大震災後の虐殺事件で亡くなられた、全ての犠牲者の方々に、ご冥福をお祈り致します。

 2017年を以て、関東大震災が起きて、94年目になります。あの時の悲劇は時が経ち、記憶から記録になり、現在では歴史教科書に明記されるまでになりました。

 この私もまた、かつて、日本学校で、関東大震災後の虐殺事件を学んだ1人です。この出来事を授業で学んだことは、はっきりと憶えています。日本籍の在日コリアンとして、日本学校に通っていた私にとって、とても衝撃的な内容でした。

 私が生徒だった頃、日本社会の中で、在日コリアンへの圧力は、少しずつ和らいでいた頃で、授業の内容は衝撃的ではありましたが、「もうこんなことはないだろう」と、どこか他人事のように考えていました。

 ですが、あれから94年経った今、関東大震災後の恐怖が少しずつ現実味を帯びてきています。路上では「韓国人や朝鮮人を追い出せ!」というシュプレヒコールが叫ばれるようになり、インターネット上では「朝鮮人を殺せ!」と書き込まれるようになりました。

 虐殺される現実はこうして、復活してきているのです。

 94年前と比べて、綺麗になってしまった東京の街にはまだ、犠牲になった方々の霊が路上で彷徨い続けていたということでしょうか。

 悲しいことに、この虐殺事件の犠牲者の正式な数は分かっていません。それは関東大震災後の混乱があったこともありますが、この事件の重大性を当時の政府は認識せず、むしろ、この虐殺事件を助長する側に回っていた側面があります。

 犠牲者の方へ追悼文を送るとはどういうことでしょう。

それは公権力が、かつての行いを反省し、マイノリティーの生命と財産を守る決意表明です。マイノリティーへの社会的圧力が強くなっていく中で、公権力は戦前の行いを反省した日本国憲法の理念に基づき、人々の生命と財産を守っていかなければいけないのです。それこそ、私たちが信任する政府の役割です。

 悲しいことに、私たちは犠牲者の方々の生命を復活させることはできません。ですが、過去を振り返り、人が死なない未来に変えることはできます。私たちの歴史は決して、成功した歴史ばかりではありません。むしろ、今に至るまで、失敗した歴史が遙かに多く、その失敗の中で、犠牲者が無数に出ました。

 その犠牲者を本当の意味で鎮魂するためには、失敗した歴史を直視し、私たちが同じ過ちを繰り返さないと決意する必要があります。

 関東大震災から94年経った今、虐殺の歴史は記憶から記録になりました。そして、今、風化しようとしています。

 本当の意味で、風化させるとはどういうことでしょうか?それは、このようなことを起こさないと未来に生きる私たちが誓うということです。

 私は公職者でありません。ですが、公職者でない私がこれを書くのは、私はこの国の主権者として、この歴史に向き合わなければいけないからです。

それがこの事件で犠牲になった方々への最大の追悼です。

 私がこれを書いたのは、本当の意味で、関東大震災後の虐殺事件を忘れるためです。

虐殺事件を知った未来の子供たちが「もうこんなことはないだろう。」と授業中に思った時、私は犠牲者の方々が天に昇った瞬間だと思うのです。

 このような瞬間を作っていくことこそ、今の時代に生きている私たちができることです。そして、この瞬間を未だに路上を彷徨っている犠牲者の方々に観て頂ければ、嬉しいです。

私の『満月の夕』

  「都民ファースト」で話題になっている小池百合子都知事が、関東大震災後に起きた朝鮮人虐殺の追悼式典で、追悼文を送らないことにしたという。

 都としては、都知事は都主催の慰霊行事で、全ての人々に哀悼の意を表しているので、個別の式典では、追悼文を送付しないと発表している。

 だが、今年3月、都議会一般質問の中で自民党都議である古賀俊昭都議が、朝鮮人虐殺に関して、犠牲者数の根拠が不明瞭であると発言しており、この発言との関連も指摘されている。

 私には好きな曲がある。それは3・11の時に知った『満月の夕』という曲だ。

元々は、阪神淡路大震災の時に、ソウル・フラワー・ユニオン中川敬さんとヒートニューウェイブ山口洋さんが作った曲で、震災に遭った、神戸の街の様子を歌っている。

3・11の時に、私はこの歌を聴きながら、テレビから流れている津波の映像を観ていたことを記憶している。

 『満月の夕』には数パターンの歌詞が存在するが、中でも、神戸を地元にしている「ガガガSP」が歌っているバージョンには、こんな歌詞が入っている。

声のない叫びは煙となり

風に吹かれ空へと舞い上がる

言葉に一体何の意味がある

乾く冬の夕べ

  私はこの歌詞がとても好きだ。

震災の時に感じた、無力さや虚しさのようなものが本当に現れていると思う。

 それと同時に、私は、この歌詞を聴くと、関東大震災後の朝鮮人虐殺を思い浮かべる。

 だけれども、この歌詞と違う点は、関東大震災後の朝鮮人虐殺の犠牲者たちは今でも、空へと舞い上がることが出来ず、地上で漂っていることだろうか。

 名著である、野村進さんの『コリアン世界の旅』では、阪神淡路大震災を取り上げている。その中で、関東大震災後の朝鮮人虐殺を知っていた在日コリアンたちは、また、「あの時」と同じように、再び、朝鮮人が日本人に襲われるのではないかと不安になった。とあった。

 関東大震災後の朝鮮人虐殺が起きたのは1923年の話で、阪神淡路大震災が起きたのは1995年の話だ。時代も違えば、現在では、有力な民族団体もある。だけれども、当事者にとって、関東大震災後の朝鮮人虐殺は終わらない話なのだ。

 阪神淡路大震災から何年も経ち、2011年に、東日本大震災が起き、2016年には熊本地震も起きた。あれから、また時は流れたが、関東大震災後の朝鮮人虐殺の不安だけは確実に大きくなっている。

 ネットを観ていると、ヘイト発言ばっかりだ。在日コリアンを一方的に誹謗中傷する発言もあれば、中には「死ね。」という発言まで存在する。そして、何より不安を増大させたのは、2013年に起きたヘイトスピーカーたちによるデモだった。あのデモによって、多くの人たちが在日コリアンへの憎悪を表に出すことをためらわなくなってしまった。

 「あの震災をきっかけに大きく変わった。」という紋切り型の言葉がたくさん語られるが、その言葉は在日コリアンである私にとって、命の危険として実感している。

 もし、今、東京で直下型の地震が起きたとしたら、どうなってしまうだろう。

私は震災が原因で死ぬことよりも、ヘイトスピーカーと偏見に固められた「善意」によるデマ情報によって、死んでしまうのではないかと不安になっている。

 だから、私は最近、あらゆる人にこんなことを頼むようになっていた。

「震災があったら、守って下さいね。宜しくお願い致します。」と。

 そんな状況にも目を向けず、小池百合子東京都知事は一体何をしているのだろうか?朝鮮人虐殺の追悼会に追悼文を送るとは、震災の時でも、マイノリティーの安全を守るという意思表示ではないのか?

 今、アメリカでは白人至上主義者とそうではない人々との対立が続いているが、トランプ以外のアメリカの地方の政治家たちはマイノリティーの保護を主張した。

 それこそ、公職者の仕事だ。

 東京とはどんな街だろう?色々なイメージが浮かぶかもしれないが、実は、私にとって、東京とは「差別の街」なのだ。それは様々なマイノリティーがひしめき合って生活しており、その生活の中で差別的な出来事は数えきれないくらい発生する。

 東京の中では、居住する空間も、差別されている人たちとそうではない人たちで、はっきりと分かれていたことを知っていた人たちも、もう少なくなっているかもしれない。

 東京がそんな「差別の街」だからこそ、新しい文化を生み出してきた人たちも沢山、出てきたし、差別がある故に、朝鮮人虐殺のような悲しい歴史にも向き合ってきた。

 だけれども、今、小池都知事は、そんな「差別の街」東京を小奇麗にして、「差別」を忘れ去ろうとしている。

 小池都知事の『都民ファースト』の『都民』の中には在日コリアンはどうやら入らないようだ。

君たちは『火山島』を読んだのか?

 今、芥川賞選考委員で作家の宮本輝氏の芥川賞選評が話題になっている。

宮本氏は芥川賞候補作で、温又柔さんの作品である『真ん中の子供たち』に対して、このような選評をした。

「これは当事者たちには深刻なアイデンティティと向き合うテーマかもしれないが、日本人の読み手にとっては対岸の火事であって、同調しにくい。なるほど、そういう問題も起こるのであろうという程度で、他人事を延々と読まされて退屈だった」

宮本輝芥川賞選評『文藝春秋』2017年9月号)。

 宮本氏の選評を読む限りだと、如何にも「在日文学」を他人事としてしか考えていないようにも見える。

 このような「在日文学」への態度は、今に始まったことなのだろうか。

 この問題を問う前に、日本語とはどういう言語なのか、ということを説明しなければならない。

今では、日本語の使い手と言えば、所謂、「日本民族」か、「外国人の日本語学習者」だと思われている。

 だが、その昔、日本の植民地の人々もまた、日本語の使い手だった。

 在日コリアンである私の祖父母は日本語話者であり、韓国語話者、父方に限って言えば、済州語話者でもあった。

 植民地を経験している人々の日本語はとても綺麗だ。

それは当然である。「綺麗」な日本語を使わなければ、帝国で、人と認められないことを知っていたからだ。

「代書屋」という上方落語の噺を知っている人はどれだけ居るだろうか?

あの噺の中には、済州島出身者が出て来る。そして、その済州島出身者は朝鮮語訛りの日本語を喋って、日本人の観客の笑いを誘う役割になっている。奇遇なことに「代書屋」に出て来る済州島出身者は私の父方の祖父と同郷で、この噺を聴く度に、「うちのじいさんはこんな訛りをしているというのを誰からも聴いたことがないんだが・・・・・。」という気持ちになる。関東大震災朝鮮人虐殺の時は、「10円50銭」という言葉が、朝鮮人を見分けるための合言葉になった。

つまり、日本語を「綺麗」に話すとは、時に命が掛かっていたのだ。

 私たちが使っている日本語とは、近代の歴史から考えてみると、植民地と帝国を繋ぐ言葉だった。

 だが、その言葉を植民地と帝国を繋ぐ言葉ではなくて、植民地から解放された後の惨状の中で生き抜いた人たちの言葉にした作品があった。

 その作品とは金石範さんが長年に渡って、執筆した『火山島』である。

『火山島』は日本からの解放後、朝鮮半島が混乱の時代を迎えていた中で、済州島で起きた虐殺事件である「済州島4・3事件」をテーマにした小説だ。

 「済州島4・3事件」とは、 まだ韓国がアメリカ軍政時代だった1948年に起きた、アメリカ軍政で国防を担った南朝鮮国防警備隊やその後進となる韓国軍や韓国警察、朝鮮半島の右翼集団による済州島島民の虐殺事件である。この事件で、島民の5分の1である6万人が犠牲になったと言われている。

 この事件は、韓国国内で「共産主義者の暴動」とされ、長年、この事件はタブー視されていた。だが、民主化以降、済州島4・3事件をもう一度、見直す動きが始まり、盧武鉉政権になってから、大統領自身が、済州島4・3事件における韓国政府の責任を認め、謝罪をするまでになった。

 タブー視されていたのは、韓国国内だけではない。在日社会でも語られない問題だった。この事件をきっかけに、済州島から、命からがら、日本に逃げてきた人々にとって、この問題を語ることは体制の報復や日本の入管法の関係で難しかった。私の父方の祖母も最期まで語ることはなかった。

だが、ようやく、近年になって、詩人の金時鐘さんをはじめ、この事件に関わった当事者が少しずつ語るようになった。

 当事者たちですら語れないタブーを打ち破ったのが『火山島』だった。もし、この『火山島』が日本語ではなく、韓国語、いや、朝鮮語で書かれたらどうなっていただろう。「反共」を国是として掲げ、軍事独裁政権だった韓国で、書き続けることはできなかったことは想像できる。

 私はかつて、金石範さんの講演会に行ったことがある。その席で金石範さんが主張していたのは『火山島』を韓国文学とされたくないということと、『火山島』が日本語だからこそできた文学であるということだった。

 日本語であるからこそできた文学。これほどにまで、素晴らしい文学は存在しない。

 だが、「日本文学」を愛する人々は「日本語だからこそできた文学」にどうやって向き合ってきたのだろか?

この小説は日本国内で賞を2回ほど、獲っているにも関わらず、今回、宮本氏を批判する側から金石範さんの名前も『火山島』の名前も出て来なかった。

 この問題は新しい問題として考えている人たちが多いかもしれないが、実は極めて古く、極めて新しい問題なのだ。

 日本語だからこそできる文学とは何だろう?それは谷崎潤一郎が語るような日本語の持っている「情緒性」を根拠にするのではなく、金石範さんのように政治的に、もしくは社会的に声を出しにくい人たちに救いをもたらすための文学という一面があるのではないか。

 私は金石範さんという偉大な作家がいつ評価されるのだろうか。と、いつも考えている。だが、こう考えることもできる。私は誰もが見逃している作家とその人が命をかけて紡いだ作品を私だけが知っているのはとても幸せだということだ。

 私はまだ温さんの『真ん中の子供たち』を読んでいない。

だからこそ、あえて、今回は、この作品について、語らないことにしよう。

私は温さんの作品を読まなければいけない。

だが、そんな私しか知らない金石範さんの『火山島』という作品を是非とも色々な人に読んで欲しいものだ。

8月15日を語り継ぐ

   今日は8月15日だ。この時期になると、母方の祖母が私に語り継いだ昔話を思い出す。

 1945年、私の祖母は当時、17歳の少女だった。祖母の家は古くから、キリスト教プロテスタント)を信仰していた。

 戦争に突入し、植民地への締め付けが厳しくなっていったこの時代、信仰者たちにとって、最大の問題は神社参拝や宮城遥拝だった。キリスト教の中でも、プロテスタント偶像崇拝とみなされる行為は厳格に禁止されている。

 当然、神社や宮城への参拝は厳禁だ。

だが、当局の圧力によって、神社参拝や宮城遥拝を自ら行うクリスチャンたちも増えていった。そのような時代の中で、祖母の家族は、神社参拝や宮城遥拝といった「偶像崇拝」はしないと決め、祖母もそれに従っていた。

 ある夏の日、祖母はいつものように宮城遥拝をさぼっていた。

さぼっている少女の姿を観て、憲兵が現われ、祖母に何故、宮城遥拝をしないのかを尋ねる。祖母は自分自身がクリスチャンであることを理由にどうしても遥拝できないことを丁寧に説明した。だが、憲兵はどうしても遥拝させようとする。

 祖母は気が強い人間だったので、どうしてもできないと言うと、憲兵は怒って、出頭を命じてから、どっかに行ってしまったそうだ。

 そんな憲兵とのひと悶着があってから、祖母はラジオで日本が戦争に負けたことを知った。もしも、このラジオ放送が無かったら祖母はどうなっていたのだろうか?そんなことを思うと背筋が凍る。

ラジオ放送があった8月15日の夜はとても静かだったという。

ソウルに居る日本人たちは、植民地の人たちの報復を怖れていたからだ。

祖母曰く、ソウルに居る日本人たちはすぐに居なくなってしまったという。

 祖母は亡くなる寸前まで、憲兵に追いかけられる夢を観ていると言っていた。

憲兵に捕まれば、何をされるか分からない。実際に神社参拝や宮城遥拝を拒否して亡くなった牧師まで居た。それほどまでに恐怖を身近に感じる時代だったということだ。

 韓国では8月15日を『光復節』と呼んでいるが、大日本帝国によって、自由を奪われていた植民地の人々にとってはまさに「光が復び戻った日」であるのだ。

そのような文脈を知らない人たちがかなり多い。この時期の終戦記念日の特集を観ていると、植民地の人々の話は「終戦記念日」の語り継ぎの中で余りされていないということがあるからだと思う。

 この時期は、「日本人」だけの戦争体験ばかりが語られるが、あの戦争の当事者は「日本人」だけではない。

 今の日本の終戦記念日の語り継ぎは「日本人の語り継ぎ」のみに限定されてしまって、「帝国」や「植民地の人々」を語らないまま、ただ、単に「あの時代は不幸だった。」とするだけの記念式典になっているのではないか。

 あの時代、懸命に生きた人々の生は一体、何だったのだろうか。

 私は「日本人の語り継ぎ」のみに限定されない終戦記念日の語り継ぎの中に、信仰の自由の素晴らしさを見出した。それは同時に、8月15日を信仰の自由の無い社会にしないと誓う日だ。

 近年、特攻をむやみやたらに、美化する風潮があるが、青年たちに特攻を命じた体制を肯定するために特攻隊で亡くなった人々を「英霊」だと語り継いでいるが、それは違うと思う。再び、戦争を起こさないようにするために特攻隊を語り継ぐことこそが、あの時代に亡くなった人々の死を「無駄死に」にしないようにする唯一の方法だ。

 実は今日、「NO WAR!」と胸に書かれたTシャツを着て、靖国神社に向かっていた。その途中、明治通りで行っていたネトウヨのデモに出くわし、写真を撮っていた。

 そんな私を見て、デモ隊のあるひとりが「言いたいことがあるなら言ってみろ!」と言って、私に突っかかってきた。

そうすると一斉に、デモ隊は私の方を向いた。ざっと、50人ぐらい居ただろうか。

私は騒ぎになると予感して、すぐにデモ隊から逃げた。

結局、千鳥ヶ淵戦没者墓苑しか行けず、靖国神社に行くことが出来なかった。

 「語り継ぐ場」としている靖国は私の想像を超えて、もっと変わろうとしていることを体験した瞬間だった。きっと私の体験も、ここに書くことによって、誰かが語り継いでくれると思っている。