私の『満月の夕』

  「都民ファースト」で話題になっている小池百合子都知事が、関東大震災後に起きた朝鮮人虐殺の追悼式典で、追悼文を送らないことにしたという。

 都としては、都知事は都主催の慰霊行事で、全ての人々に哀悼の意を表しているので、個別の式典では、追悼文を送付しないと発表している。

 だが、今年3月、都議会一般質問の中で自民党都議である古賀俊昭都議が、朝鮮人虐殺に関して、犠牲者数の根拠が不明瞭であると発言しており、この発言との関連も指摘されている。

 私には好きな曲がある。それは3・11の時に知った『満月の夕』という曲だ。

元々は、阪神淡路大震災の時に、ソウル・フラワー・ユニオン中川敬さんとヒートニューウェイブ山口洋さんが作った曲で、震災に遭った、神戸の街の様子を歌っている。

3・11の時に、私はこの歌を聴きながら、テレビから流れている津波の映像を観ていたことを記憶している。

 『満月の夕』には数パターンの歌詞が存在するが、中でも、神戸を地元にしている「ガガガSP」が歌っているバージョンには、こんな歌詞が入っている。

声のない叫びは煙となり

風に吹かれ空へと舞い上がる

言葉に一体何の意味がある

乾く冬の夕べ

  私はこの歌詞がとても好きだ。

震災の時に感じた、無力さや虚しさのようなものが本当に現れていると思う。

 それと同時に、私は、この歌詞を聴くと、関東大震災後の朝鮮人虐殺を思い浮かべる。

 だけれども、この歌詞と違う点は、関東大震災後の朝鮮人虐殺の犠牲者たちは今でも、空へと舞い上がることが出来ず、地上で漂っていることだろうか。

 名著である、野村進さんの『コリアン世界の旅』では、阪神淡路大震災を取り上げている。その中で、関東大震災後の朝鮮人虐殺を知っていた在日コリアンたちは、また、「あの時」と同じように、再び、朝鮮人が日本人に襲われるのではないかと不安になった。とあった。

 関東大震災後の朝鮮人虐殺が起きたのは1923年の話で、阪神淡路大震災が起きたのは1995年の話だ。時代も違えば、現在では、有力な民族団体もある。だけれども、当事者にとって、関東大震災後の朝鮮人虐殺は終わらない話なのだ。

 阪神淡路大震災から何年も経ち、2011年に、東日本大震災が起き、2016年には熊本地震も起きた。あれから、また時は流れたが、関東大震災後の朝鮮人虐殺の不安だけは確実に大きくなっている。

 ネットを観ていると、ヘイト発言ばっかりだ。在日コリアンを一方的に誹謗中傷する発言もあれば、中には「死ね。」という発言まで存在する。そして、何より不安を増大させたのは、2013年に起きたヘイトスピーカーたちによるデモだった。あのデモによって、多くの人たちが在日コリアンへの憎悪を表に出すことをためらわなくなってしまった。

 「あの震災をきっかけに大きく変わった。」という紋切り型の言葉がたくさん語られるが、その言葉は在日コリアンである私にとって、命の危険として実感している。

 もし、今、東京で直下型の地震が起きたとしたら、どうなってしまうだろう。

私は震災が原因で死ぬことよりも、ヘイトスピーカーと偏見に固められた「善意」によるデマ情報によって、死んでしまうのではないかと不安になっている。

 だから、私は最近、あらゆる人にこんなことを頼むようになっていた。

「震災があったら、守って下さいね。宜しくお願い致します。」と。

 そんな状況にも目を向けず、小池百合子東京都知事は一体何をしているのだろうか?朝鮮人虐殺の追悼会に追悼文を送るとは、震災の時でも、マイノリティーの安全を守るという意思表示ではないのか?

 今、アメリカでは白人至上主義者とそうではない人々との対立が続いているが、トランプ以外のアメリカの地方の政治家たちはマイノリティーの保護を主張した。

 それこそ、公職者の仕事だ。

 東京とはどんな街だろう?色々なイメージが浮かぶかもしれないが、実は、私にとって、東京とは「差別の街」なのだ。それは様々なマイノリティーがひしめき合って生活しており、その生活の中で差別的な出来事は数えきれないくらい発生する。

 東京の中では、居住する空間も、差別されている人たちとそうではない人たちで、はっきりと分かれていたことを知っていた人たちも、もう少なくなっているかもしれない。

 東京がそんな「差別の街」だからこそ、新しい文化を生み出してきた人たちも沢山、出てきたし、差別がある故に、朝鮮人虐殺のような悲しい歴史にも向き合ってきた。

 だけれども、今、小池都知事は、そんな「差別の街」東京を小奇麗にして、「差別」を忘れ去ろうとしている。

 小池都知事の『都民ファースト』の『都民』の中には在日コリアンはどうやら入らないようだ。

君たちは『火山島』を読んだのか?

 今、芥川賞選考委員で作家の宮本輝氏の芥川賞選評が話題になっている。

宮本氏は芥川賞候補作で、温又柔さんの作品である『真ん中の子供たち』に対して、このような選評をした。

「これは当事者たちには深刻なアイデンティティと向き合うテーマかもしれないが、日本人の読み手にとっては対岸の火事であって、同調しにくい。なるほど、そういう問題も起こるのであろうという程度で、他人事を延々と読まされて退屈だった」

宮本輝芥川賞選評『文藝春秋』2017年9月号)。

 宮本氏の選評を読む限りだと、如何にも「在日文学」を他人事としてしか考えていないようにも見える。

 このような「在日文学」への態度は、今に始まったことなのだろうか。

 この問題を問う前に、日本語とはどういう言語なのか、ということを説明しなければならない。

今では、日本語の使い手と言えば、所謂、「日本民族」か、「外国人の日本語学習者」だと思われている。

 だが、その昔、日本の植民地の人々もまた、日本語の使い手だった。

 在日コリアンである私の祖父母は日本語話者であり、韓国語話者、父方に限って言えば、済州語話者でもあった。

 植民地を経験している人々の日本語はとても綺麗だ。

それは当然である。「綺麗」な日本語を使わなければ、帝国で、人と認められないことを知っていたからだ。

「代書屋」という上方落語の噺を知っている人はどれだけ居るだろうか?

あの噺の中には、済州島出身者が出て来る。そして、その済州島出身者は朝鮮語訛りの日本語を喋って、日本人の観客の笑いを誘う役割になっている。奇遇なことに「代書屋」に出て来る済州島出身者は私の父方の祖父と同郷で、この噺を聴く度に、「うちのじいさんはこんな訛りをしているというのを誰からも聴いたことがないんだが・・・・・。」という気持ちになる。関東大震災朝鮮人虐殺の時は、「10円50銭」という言葉が、朝鮮人を見分けるための合言葉になった。

つまり、日本語を「綺麗」に話すとは、時に命が掛かっていたのだ。

 私たちが使っている日本語とは、近代の歴史から考えてみると、植民地と帝国を繋ぐ言葉だった。

 だが、その言葉を植民地と帝国を繋ぐ言葉ではなくて、植民地から解放された後の惨状の中で生き抜いた人たちの言葉にした作品があった。

 その作品とは金石範さんが長年に渡って、執筆した『火山島』である。

『火山島』は日本からの解放後、朝鮮半島が混乱の時代を迎えていた中で、済州島で起きた虐殺事件である「済州島4・3事件」をテーマにした小説だ。

 「済州島4・3事件」とは、 まだ韓国がアメリカ軍政時代だった1948年に起きた、アメリカ軍政で国防を担った南朝鮮国防警備隊やその後進となる韓国軍や韓国警察、朝鮮半島の右翼集団による済州島島民の虐殺事件である。この事件で、島民の5分の1である6万人が犠牲になったと言われている。

 この事件は、韓国国内で「共産主義者の暴動」とされ、長年、この事件はタブー視されていた。だが、民主化以降、済州島4・3事件をもう一度、見直す動きが始まり、盧武鉉政権になってから、大統領自身が、済州島4・3事件における韓国政府の責任を認め、謝罪をするまでになった。

 タブー視されていたのは、韓国国内だけではない。在日社会でも語られない問題だった。この事件をきっかけに、済州島から、命からがら、日本に逃げてきた人々にとって、この問題を語ることは体制の報復や日本の入管法の関係で難しかった。私の父方の祖母も最期まで語ることはなかった。

だが、ようやく、近年になって、詩人の金時鐘さんをはじめ、この事件に関わった当事者が少しずつ語るようになった。

 当事者たちですら語れないタブーを打ち破ったのが『火山島』だった。もし、この『火山島』が日本語ではなく、韓国語、いや、朝鮮語で書かれたらどうなっていただろう。「反共」を国是として掲げ、軍事独裁政権だった韓国で、書き続けることはできなかったことは想像できる。

 私はかつて、金石範さんの講演会に行ったことがある。その席で金石範さんが主張していたのは『火山島』を韓国文学とされたくないということと、『火山島』が日本語だからこそできた文学であるということだった。

 日本語であるからこそできた文学。これほどにまで、素晴らしい文学は存在しない。

 だが、「日本文学」を愛する人々は「日本語だからこそできた文学」にどうやって向き合ってきたのだろか?

この小説は日本国内で賞を2回ほど、獲っているにも関わらず、今回、宮本氏を批判する側から金石範さんの名前も『火山島』の名前も出て来なかった。

 この問題は新しい問題として考えている人たちが多いかもしれないが、実は極めて古く、極めて新しい問題なのだ。

 日本語だからこそできる文学とは何だろう?それは谷崎潤一郎が語るような日本語の持っている「情緒性」を根拠にするのではなく、金石範さんのように政治的に、もしくは社会的に声を出しにくい人たちに救いをもたらすための文学という一面があるのではないか。

 私は金石範さんという偉大な作家がいつ評価されるのだろうか。と、いつも考えている。だが、こう考えることもできる。私は誰もが見逃している作家とその人が命をかけて紡いだ作品を私だけが知っているのはとても幸せだということだ。

 私はまだ温さんの『真ん中の子供たち』を読んでいない。

だからこそ、あえて、今回は、この作品について、語らないことにしよう。

私は温さんの作品を読まなければいけない。

だが、そんな私しか知らない金石範さんの『火山島』という作品を是非とも色々な人に読んで欲しいものだ。

8月15日を語り継ぐ

   今日は8月15日だ。この時期になると、母方の祖母が私に語り継いだ昔話を思い出す。

 1945年、私の祖母は当時、17歳の少女だった。祖母の家は古くから、キリスト教プロテスタント)を信仰していた。

 戦争に突入し、植民地への締め付けが厳しくなっていったこの時代、信仰者たちにとって、最大の問題は神社参拝や宮城遥拝だった。キリスト教の中でも、プロテスタント偶像崇拝とみなされる行為は厳格に禁止されている。

 当然、神社や宮城への参拝は厳禁だ。

だが、当局の圧力によって、神社参拝や宮城遥拝を自ら行うクリスチャンたちも増えていった。そのような時代の中で、祖母の家族は、神社参拝や宮城遥拝といった「偶像崇拝」はしないと決め、祖母もそれに従っていた。

 ある夏の日、祖母はいつものように宮城遥拝をさぼっていた。

さぼっている少女の姿を観て、憲兵が現われ、祖母に何故、宮城遥拝をしないのかを尋ねる。祖母は自分自身がクリスチャンであることを理由にどうしても遥拝できないことを丁寧に説明した。だが、憲兵はどうしても遥拝させようとする。

 祖母は気が強い人間だったので、どうしてもできないと言うと、憲兵は怒って、出頭を命じてから、どっかに行ってしまったそうだ。

 そんな憲兵とのひと悶着があってから、祖母はラジオで日本が戦争に負けたことを知った。もしも、このラジオ放送が無かったら祖母はどうなっていたのだろうか?そんなことを思うと背筋が凍る。

ラジオ放送があった8月15日の夜はとても静かだったという。

ソウルに居る日本人たちは、植民地の人たちの報復を怖れていたからだ。

祖母曰く、ソウルに居る日本人たちはすぐに居なくなってしまったという。

 祖母は亡くなる寸前まで、憲兵に追いかけられる夢を観ていると言っていた。

憲兵に捕まれば、何をされるか分からない。実際に神社参拝や宮城遥拝を拒否して亡くなった牧師まで居た。それほどまでに恐怖を身近に感じる時代だったということだ。

 韓国では8月15日を『光復節』と呼んでいるが、大日本帝国によって、自由を奪われていた植民地の人々にとってはまさに「光が復び戻った日」であるのだ。

そのような文脈を知らない人たちがかなり多い。この時期の終戦記念日の特集を観ていると、植民地の人々の話は「終戦記念日」の語り継ぎの中で余りされていないということがあるからだと思う。

 この時期は、「日本人」だけの戦争体験ばかりが語られるが、あの戦争の当事者は「日本人」だけではない。

 今の日本の終戦記念日の語り継ぎは「日本人の語り継ぎ」のみに限定されてしまって、「帝国」や「植民地の人々」を語らないまま、ただ、単に「あの時代は不幸だった。」とするだけの記念式典になっているのではないか。

 あの時代、懸命に生きた人々の生は一体、何だったのだろうか。

 私は「日本人の語り継ぎ」のみに限定されない終戦記念日の語り継ぎの中に、信仰の自由の素晴らしさを見出した。それは同時に、8月15日を信仰の自由の無い社会にしないと誓う日だ。

 近年、特攻をむやみやたらに、美化する風潮があるが、青年たちに特攻を命じた体制を肯定するために特攻隊で亡くなった人々を「英霊」だと語り継いでいるが、それは違うと思う。再び、戦争を起こさないようにするために特攻隊を語り継ぐことこそが、あの時代に亡くなった人々の死を「無駄死に」にしないようにする唯一の方法だ。

 実は今日、「NO WAR!」と胸に書かれたTシャツを着て、靖国神社に向かっていた。その途中、明治通りで行っていたネトウヨのデモに出くわし、写真を撮っていた。

 そんな私を見て、デモ隊のあるひとりが「言いたいことがあるなら言ってみろ!」と言って、私に突っかかってきた。

そうすると一斉に、デモ隊は私の方を向いた。ざっと、50人ぐらい居ただろうか。

私は騒ぎになると予感して、すぐにデモ隊から逃げた。

結局、千鳥ヶ淵戦没者墓苑しか行けず、靖国神社に行くことが出来なかった。

 「語り継ぐ場」としている靖国は私の想像を超えて、もっと変わろうとしていることを体験した瞬間だった。きっと私の体験も、ここに書くことによって、誰かが語り継いでくれると思っている。

憲法の枠外に居る私

   私は今、失業している。故、あって、3月に会社を辞め、その後、精神的な病気になってしまい、ようやく、社会復帰しようと様々なところで走り回っている。

   私のような失業者が最初に行かなければいかないのはハローワークだ。失業保険の手続きや次の就職先を探すためにはハローワークに行くことは絶対に必須だ。

   その日はハローワークに行き、失業保険の手続きを済ませて、登録をしようとしている時だった。私がハローワークの職員に書類を提出し、その書類を職員が見るとまず先に一言、「大変失礼ですが、帰化はされていますか?」と質問された。

   一瞬何を言っているのか分からなくなったが、私は「はい。帰化してます。」と答えた。ハローワークの職員は何事もなく、登録制度についての説明を始めた。

    私は小学1年生の時に韓国籍から日本籍に帰化した。その時代は在日は全て、日本籍に帰化していくということが言われた時代だ。あの時代を懐かしく思うのと同時にこういったことがあった時に「騙された!」という気分になる。あの時代の希望は何だったのか?

    私はハローワークの職員を糾弾したいのではない。私を担当した職員は「帰化している人がしていない人か」という線引きが就職に大きな影響を及ぼすことを知っていたのだ。私の両親からは国籍条項が厳然とあった頃の時代の厳しさを良く聴いている。今になってもなお、そんな国籍条項が生き続けていることを感じるとは思わなかった。

   こんな日常を生きていると知らぬ間に自分自身の国籍であったり、帰化したことを考えてしまう。昔、とある政治家の事務所でお手伝いした時、「私は帰化人なんですが大丈夫なんでしょうか?」と私から聴いたことがあった。それは声を誰かに届けるための政治であるけれど、私が帰化人であることによって、私が支持していた政治家が攻撃されてしまうのは困る。だからこそ、私はあえて聴いている。こんなことを聴くのは馬鹿らしいと思いながら。      

   日本国憲法を読んでみる。素晴らしい憲法だ。「国民」は参政権などの権利が保障されていて、また、ご丁寧なことに労働の義務など、国民の義務まで書いてある。だが、そんな憲法の条文がお為ごかしでしかないことも私は知っている。憲法は私たちに機会平等を命じているのに、どうして、帰化人である私にはその権利が保障されず、また義務も果たせないようになっているのか?この国の憲法や法律は帰化人には適用されないのか?これじゃ、帰化する前と全く変わらない。

   こういう話をすると私のアイデンティティーの話として聴いてしまう人たちが居る。はっきり言って、何よりも悪質な人たちだ。これは個人の繊細なアイデンティティーの問題ではなくて、私たちの権利が保障されず、義務も行えないような社会的な問題であるはずだ。そんな社会の問題を個人の問題に置き換えて、変えなければいけない制度からただ、目を背けているだけじゃないか!私からしたら、まだ、ハローワークの職員の方がマシだと思っている。

   差別を受けるとは言葉のない空間に立たされるということだ。この数日間、ずっとこの出来事をどう言葉にして良いのか分からなかった。言葉のない空間に私が支配されていたのだろう。だが、言葉のない空間に向き合って、このブログで言葉にしていく以外に無いと考えた。差別とは日常の中にある。そんな日常の中を生きれるのは言葉のない空間で観たものを言葉にするからかもしれない。

   それは声を上げ続けたからこそ、足枷になっている制度がやがては無くなり、憲法に書いてあることが現実のものとなることを信じているからだ。

張本さんを思い出す日

   日曜日の朝、私は必ず『サンデーモーニング』を観てから礼拝に出掛ける。別に他のチャンネルでも良いのだが、『サンデーモーニング』でなければいけない理由がある。それは張本勲さんの『週刊御意見番』を観るためだ。先に言っておくが、多分、私と張本さんは全くスポーツへの感覚が違う。いや、違い過ぎる。そもそも、私は父親の影響で野球よりもサッカーが好きだったし、物心ついたときには、海外サッカーが普通にテレビでやっていた。なので、張本さんが時折、繰り出す、日本スポーツ至上主義的な考え方や古い精神論を主張する時には「おいおい!何言ってるんだよ!」と思ってしまう。だけれども、不思議と観ている(笑)どうやらこういう感覚になっているのは私だけではないようで、SNSを観ていると、「また張本かよ。」とか「これだから老害は・・・・・・。」といった発言も数多く見られる(笑)まぁ、言わんとしていることは分からないではない(笑)

 ネットで嫌われている張本さんの擁護をするわけではないが、ああいうおじいちゃんは在日社会の中に必ず居るタイプの人だ。そんなおじいちゃんの隣には必ずツッコミ役のおばあちゃん(奥さん)が居て、おじいちゃんが私のような「若手」に「武勇伝」を語ろうものなら、「あんた!外でそんな恥ずかしいこと言わないの!」とか「もうあれから何年経ってると思ってるの!もう時代は新しくなっているんだよ!」という鋭いツッコミが入る。その後は、大体、軽い夫婦喧嘩のようなことが起こり、気付けばそんな夫婦喧嘩も終わっている。多分、こういう夫婦漫才なのだろう。

 私が張本さんを観ている理由は分かりやすく言えば、そういう昔、活躍していたおじいちゃんが色々なことを語るところが観たいからかもしれない。個人的には張本さんに素晴らしいバディが居れば、きっとフォローもできるだろうし、違った愛され方もするんだろうなぁと思うこともある。

 そんな「在日のイケイケなおじいちゃんの張本さん」からまた別の顔を観たのは、張本さんの幼少期に関する新聞記事を読んだことがきっかけだった。張本さんは広島出身で、実は1945年8月6日の原爆投下に遭遇している。その時に、実のお姉さんを原爆で失っているそうだ。張本さんは野球選手を引退してから2回ほど、原爆資料館に行こうとしたが、どうしても行けなかった。悔しさや怒りで冷静になることが出来ず、あの空間に足を踏み入れられなかったとのことだ。

 当事者であればあるほど、どうしても語ることから遠ざかってしまう。私の父方の祖母は済州島の出身で、どうやら済州島4・3事件のことも色々と知っていたらしいのだが、私が色々と聴き出す前に亡くなってしまった。父曰く、「昔は苦労したんだよ。」ということだけを言って、どうしても過去のことを語ろうとしなかったそうだ。祖母はそうやって辛い過去に蓋をしていたのかもしれない。張本さんはそんな祖母とは対照的に早くから自分自身が在日韓国人であることを公言していたし、広島の語り継ぎも積極的に行っていた。どちらが「正しいか」という問題ではなくて、どちらも時代に向き合い続けたということなんだと思う。 

 オバマ前大統領が広島に来た時、張本さんがとても感極まった表情をして、『サンデーモーニング』で語っていたことを憶えている。安倍政権支持だと捉えられてしまった面もあるそうだが、そういう政治の問題を超えて、あの時代を知っている人の声だった。毎回、『週刊御意見番』を観ながら、「張本さん、それは違うよ!」とテレビに突っ込んでいるこの私が初めて、張本さんのカッコ良さを感じた瞬間だった。

 張本さんは時に、古い理論で私のような若い人とぶつかることもある。でも、そういうぶつかりとは別に張本さんの歴史を語り継いできた姿勢は張本さんの現役時代を知らない私でも語り継いでいきたいことだと思っている。

8月6日は原爆と同時に張本勲という人を語り継ぐ日にしていきたい。

私は弾劾する

   昨日、蓮舫代表が会見した。

その模様をFacebookの中継からずっと見守っていた。Facebookの中継からだと様々なコメントを見ることができる。蓮舫代表へのコメントはヘイトスピーチとしか思えないようなものばかりで、私はそのコメントの多さに戦慄した。

   こんな時に、私はあることを感じる。それは「日本国籍帰化したとしても、私は結局、植民地の人間なんだ。」ということだ。

   この記者会見が始まる前、蓮舫代表にはある程度の期待をしていた。戸籍謄本は開示しないということだったし、差別主義者の求めには応じないと声高に言っていた。だが、実際は差別主義者の求めに応じ、戸籍謄本の一部を開示し、さらに蓮舫代表自身の国籍離脱の書類までマスコミ関係者にばら撒く始末。

   蓮舫はとうとう、自分自身の保身のためにしか動けなかった。はっきり言えば、国会議員として日本国憲法の理念を尊重することよりも、蓮舫と同じような立場の人間が今後どうなるかよりも、自分自身の政治家人生を選んだのだ。蓮舫はただのダメな政治家だった。

   だが、何より情けないのは蓮舫の言葉に感動したとか言っている、普段、リベラルさを表に出している学者たち。情けない。極めて情けない。こういう人たちにとって、蓮舫をどうするかが問題であって、私のような立場がどうなろうが関係ないらしい。

はっきり言えば、二重国籍疑惑なんていう日本の国籍法や植民地を理解していない連中と全く同等だろう。こんなリベラルを自認する連中は二度と語らないで欲しいとまで思ってしまう。

   この問題の論点を言わば、日本の二重国籍の問題として語る人々が居る。はっきり言えば、このような語りは余りにも論点がズレている。何故ならば、蓮舫代表の台湾籍とは、所謂、日本が植民地とした「台湾」のことであり、それが回りまわって、中華民国籍とみなされるという複雑な経緯がある。つまり、これは日本の植民地主義の話なのだ。決して、単なる「二重国籍」の話ではない。

   そもそも植民地の文脈を背負った人間は「外国人」とだなんて日本では見なされない。その昔、石原慎太郎が「三国人発言」をしたけれどもそんな現実を私は体験したことがある。

    私が在日だとカミングアウトし始めた時、私の家族の話をすることになった。私の家族は極めて複雑で、祖母が4人も居る。父方に2人、母方に2人。

母方の祖母は母を生んだ祖母が日本人で、母を育てた祖母は韓国からやってきた韓国人だ。

   つまり、この私は日本人のクオーターということになる。そのことを語ったところ、ある人からこんなことを言われた。

「えっー!クオーターなのに彫りが深くないじゃん!」

私は愕然とした。

そうか、日本人にとって、外国人とはそんな存在なのか。私みたいな植民地の人間は外国人やハーフなんていう括りにすら入れないのかと。

   だが、その一方で、日本国民であると語ると日本国民ではないと平気で言う。

その昔、新井将敬議員という保守系国会議員が居た。彼は朝鮮籍から日本籍を取得し、国会議員になった。だが、彼と同じ選挙区の石原慎太郎から選挙ポスターに「新井将敬北朝鮮人」という黒いシールを貼った。

世に言う「黒シール事件」である。

   この事件で石原慎太郎は謝罪したが未だに反省はしていないようだ。

   蓮舫の記者会見を見ながら、その黒シール事件を思い出した。

結局、植民地の人間は外国人にも日本人にもなれない。

そして、この事実に目を向けようともせず、お為ごかしで何も見ようとしない人々に私は恐怖と失望を感じる。

    私は蓮舫蓮舫に群がる連中を見ながら、この二重国籍疑惑は結局、自分自身を日本人として感じるための行為だったんだなと。

蓮舫を批判することによって、日本人のアイデンティティを感じ、そして、蓮舫自身は保身のために蓮舫批判者が作ったお立ち台に乗って、戸籍謄本を開示し、蓮舫の言葉に感動した連中や二重国籍云々としか語れない連中は自身のリベラル性しか確認できなかった。

   私はこんな気持ちの悪い儀式の真ん中で立つ蓮舫と群がる連中を弾劾する。

私は日本人のアイデンティティーを感じさせるための道具じゃないからだ!

焼いた魚は海から川を目指す

    先週、阿賀野川の旅へ出掛けていた。

   きっかけは『阿賀に生きる』という傑作ドキュメンタリー映画を通して知り合った、旗野さんという方に東京で阿賀行きを誘われ、その翌日にはすでに新潟行きの深夜バスのチケットを買っていた。

   旅の初日、新潟市内で旗野さんと待ち合わせだったのだが、実は旗野さんと会う前にボトナム通りという柳の木が街路樹の通り道に出掛けた。

以前、このブログで紹介したように新潟市在日朝鮮人の帰還事業の拠点になった。

1950年代から新潟港から北朝鮮の元山港へ総勢10万人の在日朝鮮人たちが出掛けていった。

私の祖父の弟一家もここから北朝鮮に渡り、祖父の一家は新潟まで来たが、民団の切り崩しにあい、日本に残ることになった。

新潟という一見関係のない地でまさか、私自身のルーツを辿るとは思わなかった。

   感慨にふけった後、旗野さんと新潟駅で会い、その後、昼酒ならぬ午前酒を楽しみ、2時間のインターバルを挟み(真面目な新潟水俣病の講演会を聴き)、その後は講演会の会場で知り合った冥土連の皆様と愉快な時間を送り、柳水園で宿泊した。

   2日目は映画「阿賀に生きる」のツアーに参加した。2日目からは坂東先生と坂東先生の学生さん2名が参加し、一緒に行動することになった。

今回のツアーで色々、お話をしてくださったのは平岩さんという方。

この方の説明がとても分かりやすい!

旗野さんと出会っているにも関わらず、私は新潟水俣病の話はまだ良く分からない。今まで疑問に思っていたことや歴史として知らなかったことは全て平岩さんの丁寧な話で理解するようになった。

それに加え、新潟水俣病だけではなく、新潟の近代史にまつわる話もたくさん話して下さった。

   ツアーの後は旗野さんと坂東先生と坂東先生の学生さんとカメラマンの伊藤さんと柳水園で大宴会!途中から記憶が無い(笑)

   3日目は伊藤さんのご厚意によって、途中まで自動車で送って頂き、そこから新幹線で地元に帰っていった。

    実はこの旅の中でずっと引っ掛かっていたことがある。

それは初日の2時間のインターバル、こと、新潟水俣病の講演会だった。

若松さんという方が講演をされていて、とても勉強になったのだけれども、なんだか新潟の話をされた気がしなかった。

   これは旗野さんから聴いた話だが、新潟水俣病は長らく、熊本の水俣病と比較される対象であり続けたという。

阿賀に生きる』が完成する前まで、マスコミや有名な表現者たちは水俣を追い続けた。

それは新潟に比べて、画になるということが理由だったらしい。

  だけれども 「新潟」水俣病だからこそできることは何なんだろうということは問われないままだ。

   新潟という土地は実は戦後日本の舞台となった土地だ。

私の祖父や祖父の弟が関わった帰還事業の中心地であったし、戦後民主主義と金権政治の象徴である田中角栄が出たのも新潟だ。

   そして、新潟は新潟水俣病が起きた土地でもあり、原発をいくつも抱えている地方自治体でもある。

   つまり、新潟は他の土地よりも戦後日本の切実な問題を抱え込んだ土地でもあるということだ。

そんな土地にはどんな可能性があるのだろう。

   水俣病のみならず、ある社会問題を語ろうとするとその社会問題がどういった問題であるということしか語られない傾向にある。

「在日」を例に挙げてみると、「在日」の問題を外に向かって語ろうとすればするほど、「在日」以外の問題を語れなくなってしまうということだ。

   私がまだ在日コリアンに関する卒論を書いていた頃、友人のシェアハウスで、卒論の中間発表会を開いてくれた。

中間発表会自体は「上手く」いき、懇親会になって、友人と深夜まで話していた。

そこにある女性が現れた。

友人に紹介してもらい、私の中間発表会の内容にについて話した。

それを聴いた彼女は滔々と彼女の話をし始めた。

彼女自身のセクシャリティーの話。

彼女自身の身内の話。

彼女の言葉から滲み出る切実さに言葉が出なかった。

そして、彼女が話を終える時、私に問いかけた。

「私は生きていて良いんでしょうか?」

私は中間発表会が失敗したと気付いた。

「そうか、在日しか語っていなかった」と。

そこから私とは違う切実さを持った人とどうやって繋がれるかを考え始めたと思う。

  新潟には様々な問題があって、その問題から様々な切実さを抱えた人たちが居る。

そんな様々な切実さを抱えた人たちが語り始めた時、切実なところから繋がれる大きな可能性がある。

   近代の知恵とは個が個で応答することだという。

そんな個の切実さに個の切実さで応答した時、どんな新しい言葉ができるだろう。

それが新潟だからこそできる語りだと思った。

   新潟市から阿賀野川流域に行ったのはまるで鮭の遡上のようだ。

映画によって焼かれた私はまるで鮭みたいな旅をしていたのかもしれない。

   1日目も2日目も柳水園の楓の間で食事をしたけれども、誰かもうひとり居るような気がした。

ああ、あの人か。

あの人はここに居るのか。

1日目は旗野さんへの乾杯で、2日目はあの人への乾杯だった。

どうやらずっと私たちを追いかけていたらしい。

そっかぁ。

私は焼いた魚として海から川を目指していたところをあの人に撮られていたのか。