拝啓 デマサイトを管理していた人へ

   はじめまして。私は貴方と同じ年の25歳の在日コリアンで、名前はSHIONと申します。貴方がこんなブログを読むかどうか分かりませんが、今回、私のブログ上で手紙を書かせて頂きました。本当は私の実際に書いた字で、私の本名と住所をしっかりと明記した上で貴方に手紙を書きたいと思ったのですが、それはインターネットの特性上できないということでとても残念です。

 貴方がインターネット雑誌でインタビューを受けている記事を拝読させて頂きました。『大韓民国民間報道』というブログを立ち上げた経緯、ブログの中で問題になった記事はフェイクニュースであったこと、短期的にお金を稼ぎたいという目的があったこと、ニュースサイトの真似事をする方法、告訴されにくいということや記事のPV数を稼ぎやすいという理由だけでヘイトスピーチをまねくような記事を書いていたこと、様々な理由と手法でブログを執筆していらっしゃったのですね。私は貴方の無邪気でどこか他人事としか思えないような独白に対して、怒りを通り越して、もはや感心してしまうぐらいになりました。

 貴方の儲かりたいというちょっとした気持ちで書いたフェイクニュースによって、路上で「朝鮮人は帰れ」「韓国人は死ね」と口汚い言葉を吐くようになってしまう現実があるからです。私が今まで私の故郷として愛していた東上野の近くでもヘイトスピーチが公然と吐かれるようになりました。唾ならばまだしも、ありもしないことで中傷されるのは余りにも理不尽です。

 私は小学校1年生の時に帰化をしました。帰化をした理由は私が警察官になりたいという夢を親が実現させてあげたいという親心だったんです。私の両親や親戚たちは韓国籍であったことで進学や就職の際に苦労しました。私のいとこも警察官を志望していたのですが、国籍条項があったので警察官になることができませんでした。両親は私に日本籍を与えることによって、この社会で生きていく選択肢を与えてくれたんです。私が帰化した時は良い時代でした。やがては在日も全て帰化していくだろうと言われた時代で、本当に国境や民族なんていうものを考えなくても良いと思っていました。ですから、いつまでも国籍にしがみついている同胞たちを蔑んだ目で見ていた時代もありましたよ。しかし、そんな時代は過ぎ去って、私が韓国人であったというだけで言われもしないことで罵倒され、命を脅かされる時代になりました。

   最近、家ではどうやって苗字を変えようかと真剣に話してます。私の苗字は植民地時代に名乗っていた名前です。「そんな苗字をしていては韓国人だとバレるからいつでも変えなさい」と両親は言います。かつて日本に帰化することが可能性を広げると言われたのに今では名前を変えなければ命に関わると真剣に話すようになってしまったのです。私だけが被害に逢うのであれば、それは私自身、覚悟をしてこの現実を受けとめるだけで十分です。しかし、私には姪が居ます。この子の母親は私の妹です。この子が今後、韓国人の子だと言われいじめられ、こんなことを考えたくはありませんが、この子の命もどうなるか分かりません。私一人、もしくは私の一家だけで済む問題が未来の世代にも大きく影響を及ぼすようにもなってしまったんです。本当にやりきれません。

 貴方は記事の中で「デマや噂なんてこの世にありふれている。それに踊らされるのは個人の問題ではないでしょうか。噂を流した側の責務ではない。これからもデマはでき続けるはず。収益化できるかは別ですが」と言いました。貴方の流したデマそのもので私や私の大事な家族やそしてこれからの人生を健やかに生きていく権利のある姪の未来を大きく傷つけているのです。私は貴方の儲けたいという気持ちの犠牲にはなりたくありません。まだまだこの世の中を楽しく生きていく権利があります。貴方はちょっとした気持ちでやっていたのかもしれませんが、貴方のせいで私たちの人生は大きく変わろうとしています。それでもこの中を生き抜いて本当の言葉を私は見出していきたいです。その言葉の中に未来を生きるヒントがあると思うからです。

 貴方に言います。儲ける為だけに人を傷つけるようなサイトを作るのは止めてください。二度としないでください。私の平穏な日常と未来を返してください。私の切実なお願いです。

「判断」されるための戸籍

 去年11月に私が誕生日を迎えて、25歳になった時、母から結婚の話をされるようになった。妹が私よりも先に結婚をして子供を儲けたことや母自身が結婚するのが極めて早かったということがあるのかもしれないが、一番の目的はどうやら直系の孫が見たいという願望らしい。「おいおい、我が家は天皇家じゃあるまし・・・・・・。」なんていうことを思いながらも母の直系の孫が欲しい願望を聴いている。

 我が家では結婚の話になるときに「ある話」を親からされる。

その話とは私が帰化したことをいつ話すかということだ。

結婚をするにあたって、戸籍謄本を出さなくてはいけない。その際に帰化をするという事実が分かってしまうため、できるだけパートナーには早めに言った方が良い。私は自分のパートナーとなる人には自分が在日であるということや帰化したことをちゃんと言ってきた。嘘はつきたくないし、そういった部分も含めて、私を知って欲しいという気持ちがあるからだ。どうやら帰化した事実を消す方法もあるようだが、そんなことが記載されているということ自体が何だか奇妙なものだ。一体、そんなものを知ることによって何になるのだろう。

 昔、ネトウヨ同士が仲間割れを起こして、戸籍謄本を出し合うという音声を聞いたことがある。「貴方は朝鮮人なんですか?」と大声で叫び合いながら、戸籍謄本を見せ合うという内容だった。この音声を聴いているとなんだか全てを否定されたような気がした。

 私の戸籍謄本には「帰化」という文字があるんだけど・・・・・・・。

戸籍が何のためにあるのかは分からないけれども、自分が何者かであるということを示すために確実に存在するようだ。それも自分自身が「純血な日本人」であることを示すために使われてしまっている。

 実はこんなニュースがあった。労働組合の「連合」で就職活動に関しての調査したところ、2割近くの企業が就職活動の際に戸籍謄本を提出させるという調査結果があった。しかも企業によっては生まれた場所を書かせるケースもあったそうだ。

1975年に「部落地名総鑑」という本が問題になったことは御存知だろうか?この本には被差別部落の地名が網羅されており、大企業は進んでこの本を買い、採用の際の「参考」としていたことが発覚した事件だ。

 現在では就職活動の際には戸籍謄本の提出は禁止になっている。しかし、それでも戸籍謄本の提出は現在でも行われていた。

 就職をしたり、結婚をしたりすることは人生の一大イベントだ。そんなイベントの時に、ふと自分自身がこの社会で人間として見られていないことに気づく。

 私の母は日本の学校を卒業してから旅行会社に入りたかったそうだ。しかし、その当時は国籍条項があったため、どうしても母は旅行会社に入ることが出来ず、他の企業に入ることになった。今でも母は悔しそうにこの話を私にする。就職で苦労したのは母だけではない。私のいとこも国籍条項が理由で就職ができなかった。

 今では母やいとこのような被害者は居なくなっていたと思っていたところ、こんなニュースが私の下に届いてきた。

 「グローバル人材」だの「ダイバシティ―」だのそんなカッコいい横文字には弱い癖にこういったところに関して、企業家は一切無関心なのだ。もしかしたらやっていることはかつて私が書いていたネトウヨと同じようなメンタリティーなのかもしれない。

 

 企業のお偉いさん方へ

私は「純血な日本人」であることを証明しなきゃいけませんか?

リビングとクラスTシャツと生活保護

   高校時代、私の居たクラスでは運動会や体育祭の時にTシャツを作ることが一種の決まりになっていた。私のクラスにはイラストやデザインの上手い子が居て、女の子たちが音頭を取ってTシャツを作っていた。そのシャツを着て運動会や体育祭に参加していたっけなぁ。でも、行事が終わってしまえば、見事に寝巻に変わってしまう(笑)これがあったお陰で、高校時代は無駄にTシャツを買わなくて済んだことも今から考えれば良かったことかもしれない。

   小田原市であのジャンパーを作ったお役所の人たちも同じことを考えたのだろうか?

   小田原市生活保護を担当する部署で、有志の職員でお金を集め、ジャンパーを作り、職員達で着用していた。着用したジャンパーには英語で「生活保護なめんな」などと書いてあり、そのジャンパーを着て、生活保護受給者の家を訪問していたそうだ。

   この話には色々な意見があった。私費で作ったものを事実上のユニフォームとして扱っていたことに対して怒りを感じた人、かつて生活保護を担当する職員が生活保護受給者に襲われたことから同情する人、そもそも小田原市生活保護が極めて受給しにくいことを指摘する人など、生活保護を巡る問題については次長課長の河本の一件から関心が高くなっているようだ。

   私はこの事件にある種の不気味さを感じていた。

   あのジャンパーには英語でギレン・ザビの言葉で、「あえて言おう、カスであると」と書いてあった。知らない人のために書いておくと、アニメで一世を風靡した『機動戦士ガンダム』に出て来るヒールだ。なんだか世間は不思議なもので、そんなヒールに惹かれる人は多い。確かに三国志好きが集まっても劉備が好き、関羽が好き、孔明が好き、なんていう人たちも多いけど、曹操が好きだっていう人も多い。物語の三国志から史実としての三国志が広まるにつれて、そんな傾向があるということを聴いたことがある。

   ジャンパーの言葉はガンダム好きにはかなりたまらない言葉らしいが、私みたいな立場からすれば酷い悪ノリで、しかも、分からないように英語で書いてあったことから悪質さを感じる。

   生活保護を担当する職員はこのジャンパーを手にして、メンバーシップを感じたと思う。高校時代にクラスTシャツを作って、皆んなで着ていたことを思い出すとあんなにワクワクした瞬間はなかった。彼らにとって、生活保護受給者はメンバーシップを高める存在でしかなかったのかもしれない。

   生活保護しか社会保障を受けられないという人たちが居ることは余り知られていない。かつての社会保障日本国籍が無ければ受けられなかった。その代わりに受けられる社会保障制度は自治体の裁量で決まる生活保護だけになる。

この生活保護には私の父の一家もお世話になっていた。父の家族は裕福であると言えず、かなり苦労をした。日本国籍を持たない在日として生きていた父の一家は生きていくために何度も役所に通った。しかし、役所で嫌味を言われ、こっ酷くいじめられたそうで、父や伯父はその影響か役人が大嫌いになってしまった。

だが、そのくせ、父は息子である私を役人にしたがっていた(笑)それは力がある存在が役人だったことを経験から分かっていたからかもしれない。

   このジャンパー事件の怖さは一体何だろうと考えいたが相模原市で起きた障害者殺傷事件の犯行動機を知った時の怖さと一緒だと思った。あの犯人は命を優先したのではなくて、社会にとって必要か必要じゃないかという枠組みで凶行に及んだ。それもその凶行を彼は社会貢献だと思っていたらしい。

   あのジャンパーを作った人たち、何も考えず着た人たちにも同じ狂気が隠れている。それは社会にとってこの人たちが必要か必要かじゃないかという枠組みで考え、弱者を「カス」呼ぶ狂気だ。

   この私も決して向こうの話ではない。正直言ってしまえば、私が今、働いている業界は低賃金が原因で貧困に悩む人たちが多く、私自身も決して高い賃金で働いてはいない。先日、所得の少なさから年金の支払いを安くしてもらおうかと両親と話をしたところだ。

弱い人はこの社会でますます生きにくくなっている。

   朝、出勤前に父とリビングで観た情報番組はこの小田原の事件のことについてだった。父はテレビを観ながら、大嫌いな役人の失態を「それ見たことか」と言わんが如くこんなことを言った。

「あいつらは昔っからそうなんだ。弱い奴にはとことん強い。」

父の血肉から出た言葉を私はただ聴くしかなかった。

 

こんな時に求められること

 民団の呉公太団長が新年会の挨拶の中で慰安婦問題について言及した。2015年の合意を評価し、慰安婦問題を政治的に利用してはいけないということ、少女像については「撤去すべきというのがというのが在日同胞の切実な思いだ」と述べたそうだ。団長としてこのようなことを言わなければいけないということだったのだろう。こういった意見があることも尊重をしなくてはいけない。私自身、どちらかといえば、この団長の意見に近い。2015年の合意については評価しないが、この合意を結んでしまった以上は両国政府は誠実に果たす義務がある。このような合意を結んでしまった当時の韓国政府にも問題があるというのが私の意見だ。しかし、団長の言葉にはまた別の意味で違和感を持った。

 私みたいな「在日」という立場は日韓関係で何かあると口が疲れてしまう。慰安婦問題のような日韓関係の問題があった時には韓国側のことを説明する立場に立たされるからだ。こういった時のみならず、韓国の情勢について何か聴かれることがあったり、「在日」全体の代表者として何かを言わなくてはいけないような立場に立たされる。

 例えば、最近のことになると朴槿恵大統領の弾劾デモに関して色々と話をした。本当にこの話をするのは大変だ。なにせ韓国の政治史から話さなくてはいけないのだから。私はこの話を決して、韓国の話としてしているつもりはない。むしろ、立憲主義や民主主義など普遍的な話として話をしようとしている。

 こういう話をしていると大体、私が韓国側として観られてしまうことが多い。確かに私はこの議論の場で「かつて韓国に留学をしていた日本人/在日/韓国人」という代表性を持って喋っている。代表性を持たされる時はとても心地が良くなる。それはその議論の場でマイノリティーである私が認められたということでもある。しかし、良く考えてみれば、この構図そのものがかなりおかしい。私の意見をマイノリティーの立場を代表する人間として振る舞うことによって、マイノリティーの様々な立場や存在や声を消してしまうからだ。

 例えば「在日」として韓国語が上手くなくてはいけないであるとか、日本人に帰化してはいけない、もしくは民族学校に通わなくてはいけないなど様々なその人の在り方を規定してしまう。このような中でかつて自分自身の在り方に悩み、自ら命を絶った私と同じ年の青年も居た。このような共同体による個人の規定は決して、対岸のことではない。私がかつて釜山に留学をしていた時、日本人留学生たちは自分自身を「日本人の代表」といった意識を持っていた。私が酒の席でしくじりを起こすとすぐに「日本人の代表なんだからしっかりしなきゃだめだよ」なんていうことを言ってきた。どこにでも存在する共同体の罠なのだ。

   この罠はそれだけではなく、社会全体の問題として共有しなければいけない問題をマイノリティーだけの問題としてしまう。私が韓国のデモについての話をしていて、対岸のこととしてしか受け取られていなかった。また在日を語るときも同じような反応になってしまう。代表性を持つことでマイノリティーを可視化しただけでは何も変わらない。

 代表性を持つこと/持たされることは共同体の引力の中に私自身を引き込ませる作業である。その作業からどのようにして私自身を話していくのかが最も重要なことなのかもしれない。

 私がまだ大学生だったとき、こんなことがあった。私と同じゼミ居た在日の子と合宿で話をした時だ。ふと彼女は私に「お前が在日の代表として話をするのがなんか気に入らなかった」ということを言ってきたことがあった。その時のことを余り憶えていないがそういうことがあったのだろう。

 よくよく考えてみればそうだ。私自身は決して代表性を持てる立場ではない。あらゆる面が私には存在する。在日である私、日本国籍取得者としての私、男としての私、ヘテロセクシャルである私、身体障害を持っていない立場としての私、様々な私が存在して、1つに統一されるわけではない。全てが私なのだ。

 代表性を持つことによって、そんな私の中に存在する多数の私を認めないだけではなくて、マイノリティーが抱えさせられている問題を対岸の問題として認識させられるようになってしまい、私以外のその他のマイノリティーの声や存在も認めなくなってしまう。共同体の引力や共同体の居やすさはそんな怖さを持っている。

 共同体の求心力や居心地に自分自身の身を委ねることではなく、共同体の求心力や居心地を冷静に見つめながら、自分自身の立っている立ち位置を常に建設的に疑っていくことこそとても重要なことではないか?そのような構造の中で話さなくてはいけない限り、呉団長のようになってしまうのはある意味当然だと思う。しかし、私はそんな構造を疑いながら、別のやり方で言葉を紡いでいきたい。

 

歴史と記憶と経験と

 日本政府が駐韓大使を一時帰国させた。2015年に締結した慰安婦問題に関しての日韓合意を守らないことが理由だった。日韓合意によって韓国の市民団体が設置した慰安婦像を撤去する話が持ち上がっていたが、釜山の日本総領事館の前に新しく慰安婦像が設置されたことが日本政府を怒らせ、合意の不履行を理由に駐韓大使を帰国させた。また日韓の間で取り交わされていた様々な交渉を打ち切った。慰安婦問題に関しての報道を見ていると私はあることを思い出す。それは私が未だに考え続けるのを止められないある出来事があったからだ。

 私は母からこんな話を良く聴いていた。母がまだ幼い時の頃、母は祖母と一緒に良く韓国に帰っていた。その際に宿泊するホテルには必ずお金持ちの日本人にすり寄るコールガールが居たそうだ。その光景を見て幼かった母は嫌悪感を持った。それは「女性としてそのようなことをして良いのか?」という感情と「韓国人としてのプライドは無いのだろうか?」という感情だった。母はこの話をすると毎回「こんな時に毎回、私は女性や韓国人としてのプライドを感じていたよね」と言って話を終える。そんな母の言葉にリアリティーを感じられなかった。ただ、セックスワーカーへの偏見があると思っただけだ。

 大学4年生になって、私は釜山に留学をした。留学してからしばらくして、私はある日本人のおじさんたちと飲む機会が訪れた。その宴会では大分盛り上がり、楽しかったのを憶えている。良い気持ちになった時にそのおじさんたちをホテルまで送った時、おじさんが「女を呼びたいんだけど、どう呼べば良いの?」と私に言ってきた。この言葉を聴いたときに言いようのない怒りが私の中で出てきた。今まで感じたことがない「韓国人」としての怒りだ。その場では黙っていたが、この件は釜山留学中、私が考える課題になった。

 そんな体験を私は日本に帰ってきてから、色々なところで話していた。それは余りにも酷い目の前で起きている現実を伝えたかったからだ。しかし、あるとき、私の後輩にこんなことを言われた。「先輩は民族的なことで怒っていたんですか?それとも女の人がそうなっていて怒っていたんですか?」

 私はこの質問の前で思わず黙ってしまった。その当時はそんな事実に民族主義的な観点から私は怒っていた。女性の人権よりもそんな国家や民族という視点になりやすい。そんな視点になってしまうのもなんだか変な話だ。本来は女性の話として議論されなくてはいけない。なのに何故、私はそんな視点になってしまったのだろう?母がコールガールを嫌がっていたのは何故なのか?私がなぜそのおじさんたちを嫌になったのか?なぜ、怒りを持ったのか?そんなことを私は今、このブログを書きながら問いている。

   実際に2015年に締結された日韓合意は国家間の問題として慰安婦問題が語られ、「解決」されてしまった。あの合意は日韓両政府に責任があると思う。国家間の問題になればなるほど、私は慰安婦問題が遠くのものになってしまうと危惧している。本来、慰安婦問題は帝国によって行われた女性への人権侵害だ。それは彼女たちの自由意思に基づいて行われたことでないことは明白であり、強制された空間で行われた戦争犯罪である。そして、この問題は今でも続いている問題なのだ。

   このように国家間の問題として、向こう側の話として語られることに何か違和感を感じる。女性の尊厳は国家や民族を通してなければ主張できないのだろうか?

声なき声はどこへ行ってしまったのだろう。

ブログを始めてから

 新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。

 1月1日は午前中に礼拝へ行き、新年の方針を立て、午後はお世話になっている方々への年賀メッセージを書きながら、伯父の家に行き、伯父の昔話に耳を傾けていました。正月は過去と現在と未来の3つの時制の前で言葉にならない言葉と過ごす豊かな時間になりました。本当にこんな時間が1年の中であることは重要なことです。そういうわけで1月1日に記事を掲載しようと思いましたが、1日ばかし遅れてしまいました。書くという時間とは違って、3つの時間の中から生み出される言葉の海に浸かっていようと思ったからです。

  今日はこのブログが開設されたきっかけについて書きたいと思います。

私はもともと、このブログを書く前にFacebookに長文を書いていました。日常の中でやりきれないなと思ったことやこの世の中の動きが酷くなっていく怒りを書いていたんですね。まだ当時はブログをやるなんていうことは一切考えもしていませんでした。

ある日、私はある用事で友人に会った時、友人から「ブログを始めてみなよ」と言われたんです。私のFacebookの記事をずっと読んでくれて、せっかくだから様々な人に読んで欲しいと思ったそうです。Facebookのみで文章を公開するよりも、様々な人に読んで欲しいと思っていた時期でしたし、働き始めて考える空間が欲しいと思い始めてもいたので、このブログを書くことになりました。

 最初ブログを書くにあたっては良く分からないまま書いていたので、どんな文体が良いのかなと思いながら書いたり、たくさんの人に読んで欲しいと思って、Twitterで流してみたりと試行錯誤を繰り替えす日々でした。

 そんな試行錯誤をしている時から私は本当に「伝わる言葉を書いているかな」と不安に思うことがあります。私のブログは「私のエッジから観ている風景」としているようにあくまでも私という人間の観点を大事にしながら書いています。その中には私のエスニック・マイノリティーとしての点を強調して書くことがありますが、それはマイノリティーがどのような日常を送っているのかを発信していきたいと思っているからです。しかし、このような記述をしてしまうと、「マイノリティーとしての私」を強化するだけに留まってしまい、マイノリティーの日常が「向こうのこと」として消費されてしまうのではないかと考えています。本来、マイノリティー問題は日本だけではなく様々な共同体にある問題です。その普遍的な問題が「向こうの問題」として考えられがちで、いつも「う~ん」となってしまいます。そんな「向こうの問題」として考えることに抗うことがこのブログを続けている意味だと思っています。

 本当に考えるべき面がたくさんあります。マイノリティーの共同体に居る私をただ強化するだけではなくて、様々な私が私の中に居るということ、マイノリティーの問題を「向こう」の問題にしていかないこと、そして、「無かったこと」にしないこと。そんなことを考えながら今年もブログを書きつづけたいと思っております。

今年もどうぞ皆様宜しくお願い致します。

 

 

「野蛮」の中で「野蛮」を見つける

 こんなニュースがあったことは知っているだろうか?12月24日の夜、新千歳空港で中国人観光客が大暴れした。北海道では近年まれに見る大雪が降ったせいで、12月22日から欠航が相次いでしまい、とうとう痺れを切らした観光客が大暴れしてしまったというニュースだ。ここまで大騒ぎになってしまったのは、23日に登場する予定だった観光客が大雪のせいで欠航になり、空港で一晩明かしたのにも関わらず、先に24日当日に出発する予定の客を優先して、搭乗案内したことに原因があったようだ。

 中国ではどうやらこういった遅延や欠航によるケースが多いらしい。こんな遅延や欠航に対してはかなり慣れっこな人々がこのように暴れ出すということはよっぽどのことがあったということだ。だからと言って、暴れ出すのは良くないし、何の解決にもならないけれども、「そんな気持ちにだってなるよな」と思ってしまう。

 今回、この事件を巡って様々なことを言う人たちが居た。そのどれもが「中国人が野蛮である」という言説だった。「こんなところで待つこともできない中国人は本当にマナーが無い。」「中国人には「公」という概念が無い。」なんていうことをいう始末である。 

 昔、ある有名なアメリカの文化人類学者がパプア・ニューギニアの首狩り族の調査をしに、首狩り族の村にやって来た。その学者が村に来た理由は学問ではなく、徴兵されることを怖れてのことだった。当時、アメリカはドイツや日本、イタリアと戦争を行っていて、若者を徴兵していた。どうしても戦争だけはしたくないということで、なんとかしてその村に研究調査ということでやって来たのだった。当初、その学者は首狩り族の勇敢な戦士たちにどうやら負い目を感じていて、村の中で何故来たのかを言うことはなかった。しかし、ある日、その村の一番勇敢な戦士に、村に来た本当の理由を告白した。告白した当初は「馬鹿にされるのではないか」と思ったそうだ。しかし、その勇敢な戦士が彼の告白を聞いて、こんなことを言い始めた。

「お前の国だと一般の人間に戦争をやらせるのか。なんて野蛮な国なんだ。」

 今でこそ徴兵制の国が減りつつあり、頷ける言葉なのだが、この当時は兵隊に行くことが当たり前で「近代的」とされていた時代だ。まして、今以上に「文明」と「野蛮」が強調され、首狩り族のような立場が未開人と考えられていた時代に、この言葉はその学者に衝撃を与えたそうだ。

 「文明」と「野蛮」。そんな二項対立で様々なものを見がちだ。しかし、様々な事情があったとは言え、空港で暴れてしまった中国人観光客を「こんなところで待つこともできない中国人は本当にマナーが無い。」もしくは「中国人には公共という概念が無い」と言ってしまう人々の野蛮さを観ることによって、極めて恣意的な線引きではないかということを私に気付かせてくれる。「野蛮」の中に生きている人々は外の世界の「野蛮」を見つけ、自分たちの「野蛮さ」を「文明的」であるとしたいだけなのかもしれない。